鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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描かれ、一双で二十四孝説話が表される。各扇とも、画面中央付近に樹木や土坡を配して上下の図を無理なく繋ぎ、二つの説話を違和感なく画面におさめている。雅楽助筆と伝えられるものの、落款、印章はなく、雅楽助の筆になるものかは検討を要するが、鼻が幾分大きく頬骨の出た人物の面貌表現、短い線を連ねる樹木や岩の描写などは古様で、室町時代後半の狩野派の絵師の手になるものと考えられる。もう一点、押絵貼形式の作例としてあげられるのが、山形美術館に所蔵される○山長谷川コレクションの伝狩野山楽筆「二十四孝図屏風」(紙本著色、六曲一双、以下長谷川本)である。栃木県博本と同じく各扇二図を描く。画面には地面や樹木、土坡の間に金切箔がやや疎密をつけて蒔かれているが、樹木や土坡の線などに重なっている箇所も多く、後補と思われる。各扇に「光頼」壺印が押されるが、人物の描写や樹木の表現からみて桃山時代、山楽筆というよりも、むしろ江戸時代十八世紀の作といえよう。後に詳しく述べるが、本屏風の画面構成は栃木県博本とほぼ同じといってよく、長谷川家本は、栃木県博本と共通する図様を持つ屏風を写したものであると考えられる。京都市立芸術大学に所蔵される模本の二十四孝図も、同じく狩野山楽筆との伝承を持つ作例を模写したものである。「伝狩野山楽筆二十四孝図模本」(紙本著色、以下京都芸大本)は、明治時代に活躍した日本画家で、京都市立芸術大学の前身にあたる京都府画学校の教諭を務めた森川曽文(一八四七〜一九〇二)の筆になる掛幅装の作例である(注6)。本作では二十四孝図が説話ごとに一紙ずつ模写されており、一幅に上下二紙が間隔をあけて貼り込まれ、十二幅で二十四図となっている(注7)。各図、画面の右上あるいは左上に番号と題字四文字が記され、画面の下方には「曽文」朱文方印が押される。原本となった作例は明らかではないが、どの図も細部まで非常に丁寧に描かれ、人物は大きな鼻と凹凸のある輪郭といった、いかにも室町時代から桃山時代の狩野派風の面貌をしており、やや縦長のプロポーションも当時の狩野派作例に近く、伝山楽筆とされた原本を忠実に模写しているものと考えられる。ただ、画面を見ると、男性人物は古様な狩野派風の表現であるものが多いのに対して、「郭巨図」の郭巨の妻とその子供、「唐夫人図」の犬と戯れる子供ように、江戸時代以降の狩野派作例に見られる人物表現も混在している。押絵貼形式のもう一つの例が、福岡県立美術館所蔵の尾形家絵画資料(福岡県指定文化財)の内の二十四孝図である。尾形家絵画資料とは、福岡藩御用絵師の筆頭にあたる尾形家に伝わったもので、粉本を中心に下絵、写生帖などを含む四千七百九十一点が伝えられている(注8)。この中に五十点の二十四孝図が含まれている。五十点― 343 ―

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