鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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注⑴二十四孝の伝来およびその影響関係については、徳田進氏の詳細な研究がある。徳田進『孝子説話集の研究─二十四孝を中心に 中世編』『同 近世編』『同 近代編(明治期)』井上書房、1963年、1964年。また孝子伝については黒田彰氏の研究が詳しい。黒田彰『佛教大学鷹陵文化叢書5 孝子伝の研究』思文閣出版、2001年。る図様の孟宗図、その本文に忠実に絵画化された丁蘭図などがあることを考えると、京都芸大本の原本であった「伝狩野山楽筆二十四孝図屏風」は、一般的に流布していた図様をそのまま用いるのではなく、二十四孝の原本に忠実に絵画化しようという意識を持って制作されたものであったと考えられる。京都芸大本、長谷川家本はいずれも山楽筆の伝承を持つが、山楽は『本朝画史』において『帝鑑図説』を初めて模写したと記されるように、中国の版本を基にしての制作を積極的に行っていたことが指摘されている(注18)。ボストン美術館には大画面形式の伝山楽筆「二十四孝図屏風」も所蔵されており、帝鑑図と同じく渡来の版本が典拠となったと考えられる二十四孝図においても、山楽の周辺が重要な役割を担った可能性が考えられる。また、嵯峨本との関係についてみると、栃木県博本と長谷川家本のような近似は認められないが、類似する構図で描かれるものも多く、描かれる場面のほとんどにおいて主要なモチーフは共通している。王裒図の雷神のように他の作例にはない図様を共用することから考えても、栃木県博本系統の押絵貼形式と嵯峨本との間には密接な関係のあることが分かる。両者がどのような影響関係にあるのかは、栃木県博本の制作年の問題とも併せて、今後さらに考察を進めていきたい。今回は押絵貼形式についての分析を中心に述べたが、大画面形式や扇面とも図様の共通する説話が多い一方、大画面形式では描かれる説話は限定されており、押絵貼形式に描かれる説話が全て大画面に転用されるわけではない。採用される説話とされない説話との違いはどこにあるのか、あるいは共通する説話における図様の異同も、二十四孝図の展開を考える上では重要だと考えられる。今回は触れることができなかった帝鑑図等の渡来版本に基づく画題とのモチーフの比較も含め、今後の課題とし、さらに検討を行いたいと考える。⑵記録としては、『蔭涼軒日録』長禄2年(1458)七月十七日条の、能阿弥が「二十四孝之繪」について「評議」したというものが最も早い。⑶武田恒夫「大画面にみる山水構成の特例について─初期狩野派の場合─」『国華』1086号、1985年。松尾芳樹「二十四孝図考─画中説話の採択について─」『京都市立芸術大学美術学部研究紀要』第34号、京都市立芸術大学美術学部、1990年。稲畑ルミ子「二十四孝図考」『奈良県立美術館紀要』8号、1993年。― 348 ―

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