鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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当初の「美術」は音楽や詩学をも内包し、むしろ現在の「芸術」の意に近いものであった。その対象が視覚芸術に限定されていくようになるのは、画学と彫刻の二科を置いた明治9年(1876)の工部美術学校の創立や、美術館を設置して「美術」を公称語とし、美術分類を書画、彫刻、嵌装、剞厥、写真、工案と設定した明治10年(1877)の第一回内国勧業博覧会の頃である。美術の制度化によって用語としての美術が急速に一般化する一方で、西洋的な美的態度への認識は遅れていた。これは、工部美術学校が「美術学校ハ欧州近世ノ技術ヲ以テ我日本国旧来ノ職風ニ移シ、百工ノ補助トナサン」(注2)ことを設立目的に掲げ、美術家というより職人ないしは技術者の育成を目指したように、殖産興業政策の推進を掲げる明治政府にとって、西洋の視覚芸術の優れた写実表現技術の習得が、美術推進の第一義にあったためである。画学科教授フォンタネージによる制作上の美感の表現についての言及や、当時すでに洋風画家として名を成していた高橋由一の制作態度における写実表現の追求から生まれる主体性の発現など、同時期の制作者が美に対する主観的な態度を内包していたことはこれまでも指摘されてきたが、そうした意識が強く意識されるようになるのはフェノロサが『美術真説』の中で「妙想(idea)」を「美術」の中心として捉える西洋的な絵画観を提示し、西洋への美術留学者が個人の主観的な美意識の表現や態度を美術の第一義として捉える近代的な「美術」認識を日本に伝えるようになってからである。こうした近代的な美術および美術家意識の一般化に際し、黒田清輝および岩村透の果した役割は大きい。長年フランスに留学した黒田が、久米桂一郎と共に明治27年(1894)に開設した天真道場の規則冒頭には、「当道場に於て絵画を学ぶ者は天真を主とす可き事」と記され(注3)、美術家たちの自由闊達な生活の雰囲気を尊んで、既存の封建的な師弟関係の意識や職人気質といった拘束を廃し、新しい芸術家気質を育成しようとする近代的な美術家意識が提示された。また、外交描写の技法や西洋の美術および美術教育を語る中で、自我を尊重し感覚の解放を目指す西洋の美術や制作態度について、新聞や一般雑誌メディアにて述べている(注4)。一方、黒田と共に東京美術学校教授となった岩村透は、超階級的自由を愛する心をもったパリの美術学生の様子を題材とした新聞連載「巴里の美術学生」(注5)や、明治36年(1903)の東京美術学校美術祭の如き空前絶後の祝祭で(注6)、芸術至上主義的な美術家の自由な精神の醸成を目指した。岩村は、「過去の美術は概して流派の美術、模倣の美術であつた。美術家は惰力に任せ、本性に依頼して、穏やかに己が本分を尽し得た。現代の美術は個人の美術である。世界の美術である。与へられたる― 26 ―

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