鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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い果たし、経済的な困難に陥ったために絵師の道を志した、という説が知られている(注1)。確かに光琳は、裕福で教養高く、自らも画筆を揮った父・宗謙のもとで、兄弟とともに能を習い、諸芸の造詣を深めながら成長したが、絵師として本格的に活動を開始した経緯については想像の域を出ていない。また『二条家内々御番所日次記』や『綱平公記』などの文献資料(注2)によって、光琳は二条綱平と親交があったことが知られ、元禄14年(1701)2月の光琳法橋位叙任についても二条綱平が関わっていることが推測されているが、二条家には絵師が複数出入りしており、その中で光琳が特別な絵師として処遇されていたとは言えない(注3)。一方、光琳の生家雁金屋の延宝6年(1678)の東福門院の呉服注文帳には、二条家に降嫁した娘の女五宮賀子やその養子となった綱平の幼名が確認できる(注4)。綱平にとって光琳は、祖母や養母が愛顧していた呉服商雁金屋の者として最初は認識されていたと考えられるのである(注5)。そして『二条家内々御番所日次記』に見られる法橋叙任以前の光琳の画事を示す記事を見ると、扇・色紙・長命草(たばこ)入れ・菓子箱などが綱平に献上され、それが宮中などにも献上されていることがわかる。光琳の手がける小品が、気の利いた贈答品として使われていたと見なすことができる。元禄10年(1697)正月4日には光琳は年賀として綱平に色紙6枚を献上している事例も確認できる。画題や詳細は不明ながら、色紙という形式と6枚という数字からは六歌仙がその画題として浮かび上がり、ここから光琳はその絵師としての初期段階で、殿上人に受け入れられる画題として歌仙絵を描いていたと推測できる。現存作例の中に「青」印が捺され光琳筆とされる歌仙絵色紙は複数現存しているが、ここではより光琳の初発的な画題への取り組みについて検討する必要があるため、光琳の末裔・小西家に伝来した「光琳関係資料」に含まれる歌仙図画稿について見ていきたい。⑴六歌仙図画稿「光琳関係資料」には数種類の歌仙絵の画稿が含まれている。たとえば在原業平・僧正遍昭・喜■法師・文屋康秀などの六歌仙を描いた画稿(京都国立博物館蔵) 〔図1〕(注6)では、紙面を節約して、紙の上下に歌仙が描かれている。基本的には鎌倉時代の「業兼本三十六歌仙絵」系統の図様を基本としているが、その柔軟な線描から、何らかの原本を写したものではなく、本画制作のための草稿と見られる。業平の図を反転させた別の画稿もあり〔図2〕、こちらは一辺約18cmの正方形の中にバランスよく収まるように描かれている。衣紋線や袖を顎に当てる位置を微調整しており、― 365 ―

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