より完成したフォルムに近づけようとする制作過程が窺われる。この画稿には「光琳筆」という署名が何度も試し書きされており〔図3〕、特に「光」の字のくずし具合を試行錯誤している。落款書体としての字配り、画中に記した時の調和を模索しているようにも見える。この草書体の署名と「筆」の書体は、「蹴鞠布袋図」(出光美術館蔵)〔図4〕など初期の作品に見られる落款書体に近く、この画稿は光琳が法橋に叙任される以前のもので、最初期の画稿と推定できる。この画稿の裏面には人麿と小町が同じ形式で描かれており、紙の大きさから見て、原寸大の色紙下絵と考えられる。狩野派や土佐派による歌仙絵が数多く制作され、流通していた状況で、光琳自らの歌仙像を作り上げようとする姿勢が読み取れる。⑵新六歌仙図画稿九条良経(後京極)・慈円・藤原俊成・西行・藤原定家・藤原家隆の新六歌仙画稿(大阪市立美術館蔵)〔図5〕には、光琳自身の筆でそれぞれの像主の名前が記されている。各歌仙の図様の源流としては「時代不同歌合絵」(東京国立博物館蔵)や、宗達派による歌仙絵色紙とおおよその図様が一致するが、異なる点も多い。俊成や家隆が立て膝をした鷹揚な姿で表されるのは光琳による改変と見られ、その流麗な線描と調和している。また西行法師は先行作例に較べて、眉をひそめた個性的な表情で描かれており〔図6〕、光琳も模写している「西行物語絵巻」(宮内庁・三の丸尚蔵館蔵)の中の西行の姿を彷彿とさせる。この画稿では、歌仙の肖像を表す際に、その人物にまつわる物語を想起させ、親近感を抱かせるような人物像として描かれていると言える。同じ図様による本画作品は現存が確認されていないが、画稿とは言え、白描歌仙絵として鑑賞に堪えうる優美さを保持している。光琳の歌仙図の人物描写は、基本となる先行作例の図様を踏襲しながらも、独自の解釈を加え、その時代に合った表現を目指しているように思われる。このほかにも「光琳関係資料」には歌仙を画題とする画稿が伝えられているが、これらの画稿は無目的に光琳がただ描きたいように描いたものではなく、明確な目的のために描かれた下絵であると考えられる。上述の二件の下絵による本画作品は現存が確認されていないが、これらの作品の注文主または受容者としては、やはり二条綱平など親交のあった公家衆が想定されよう。そこで次に、当時の堂上公家衆の文化的背景について見ていきたい。― 366 ―
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