鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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2.霊元院歌壇とその文芸活動について貞享3年(1686)に霊元天皇の女二宮栄子は二条綱平に降嫁した。つまり綱平にとって霊元院は舅にあたる。『二条家内々御番所日次記』を参照すると、光琳が絵を描いた扇5本を女二宮からその実母の女院(新上西門院)へ献上したという事例(注7)などが確認できる。光琳は自らの手がけたものが御所に献上されるということを意識していたと考えられ、その制作においても堂上階級の人々により受け入れられるような表現や形式を目指したと推測できる。こうした観点から二条綱平らの文化的背景として、当時の堂上歌壇について確認しておきたい。後水尾院の旺盛な文芸活動はよく知られているが、霊元院も父帝を継承する形で宮廷歌壇の中心的役割を果たしていた(注8)。霊元院歌壇は、後水尾院が崩御した延宝8年(1680)から、霊元院が崩御する享保17年(1732)の50年以上の長きにわたって存続しており、光琳の活動時期はすっぽりと入ってしまうことになる。霊元院歌壇の主要な事跡としては、貞享3年(1686)の「貞享千首」や元禄14年(1701)の「元禄千首」が知られている(注9)。「元禄千首」では、霊元院を含む宮廷歌人36人が参集して合計千首の和歌を詠じる行事で、霊元院(当時48歳)の100首を筆頭に、その歌壇の中心的歌人である中院通茂(71歳)と清水谷実業(54歳)のそれぞれ60首をはじめ、九条輔実(注10) (33歳)と二条綱平(30歳)もそれぞれ20首の和歌を奉じている(注11)。このほか、霊元院は百人一首や古典文学の講釈もたびたび行っており、旺盛な文芸活動が知られている。二条家に足繁く通っていた光琳が、綱平や女二宮が置かれている社会的立場や生活環境を無視して、画題を選ぶことは考えにくい。光琳は『伊勢物語』に関連する作品を数多く手がけたことが知られており、都落ちをする不遇な貴公子に自らの境地を投影させた、というような解釈も出されている。もちろんそうした感情的な要因や、宗達が多くの伊勢物語絵を手がけていたことも影響している可能性は皆無ではない。しかしながら『伊勢物語』は当時の教養人にとっては必修科目とも言うべき古典であった。光琳は自らの顧客を満足させるために、最も受け入れられやすい画題を選び、多くの名画を見慣れている人々に新鮮な驚きを与えるための創意工夫をしていたと考えられるのである(注12)。ただし光琳が法橋に叙された直後から、二条家に出入りする回数は激減しており、綱平およびその周辺の人物たちの動向と光琳の制作活動が完全にリンクしているわけではない。このことは、光琳と中村内蔵助との関係や光琳の江戸下向など他の要素も考慮する必要があろう。しかしながら、光琳が絵師としての活動を開始する際に、上流階級の好みに適うような画題を選び、その上で独自の表現― 367 ―

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