鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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を切り拓いていこうとした可能性は高いと言える。3.古典主題の革新と拡散以上、二条綱平や九条輔実が置かれていた文化的環境を考慮した上で、同時代を生きていた光琳がどのように作画活動にあたっていたかについて考察を進めたい。光琳の花鳥画の代表作として知られる「孔雀・立葵図屏風」(個人蔵・重要文化財)は九条家に伝来していたことが知られ、輔実も光琳の重要なパトロンの一人であったと考えられる。このほかに百人一首カルタ(個人蔵)がかつては九条家の所蔵であったことが知られる。この百人一首カルタは、限られた画面空間をより意匠的に明確な色と形で構成するために人物をデフォルメしており、光琳の画業の後半期に顕著に見られる傾向が認められると仲町啓子氏によって指摘されている(注13)。このカルタには「法橋光琳」の落款と「澗聲」白文方印を有し、光琳が京都と江戸を往復する宝永年間頃の制作と考えられているが、人物細部の表現などには様式化が進んでいる部分や、造形や線描に硬直した部分も認められ、光琳一人の手によって制作されたものとは考えにくい点がある。しかしながら読み札・取り札の100組200枚という数量から、最初から複数の人間が制作に関わったと見ることが自然であり、光琳の真筆か否かという狭義の問題を持ち込むことは妥当ではないと思われる。光琳がこのカルタの制作に確かに関わっているということを示すものが、光琳関係資料に含まれる百人一首カルタ下絵〔図7〕であり、一紙を18分割した6枚の紙に百人の歌人を描いている。人物名の墨書も光琳の筆によるものと見られる。この画稿の表面には輪郭線を篦のような道具でなぞったような跡が確認できることが〔図8〕、田中一松氏によって指摘されている(注14)。すなわちこの画稿は原寸大の制作下絵であり、型取りという工程からカルタは複数制作されたことが考えられる。当時の公家社会において、和歌が単なる文芸活動ではなく多分に政治的な意味合いを持っていたことは明らかで、こうした豪華なカルタが婚礼調度や贈答品として重要な機能を果たしていたことに鑑みれば、光琳にとってもカルタ制作は、重要な収入源となっていたことも推測できる。慶長期以降、光琳の活躍期には、朝廷における文芸愛好が拡散する形で、歌仙絵や百人一首、また『伊勢物語』や『源氏物語』といった古典文学の版本が数多く出版されており、一般的に文芸ブームが高まっていた。元禄年間以降には歌仙絵の表現や受容形態も大きく展開していたと見られる。そうした観点からすると、三十六歌仙を二曲一隻屏風に群像として描いた「三十六歌仙図屏風」は光琳の時代にこそ生まれ、そして琳派において継承された画題と言える。光琳をはじめとして抱一・其一へと広が― 368 ―

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