ためである。また、教育や発表の場の拡充に伴って、美術の受容層が増したことも一要因にある。このように美術家意識を反映するものとして美術団体を捉えるとき、団体の設立目的や活動内容を検証することで、日本近代における美術家意識の変化や傾向をみることができる。そこでまず、明治期から昭和戦前期にかけての美術家団体の変容を追い、次に、地縁をもとにする美術家団体に着目し、投影された美術家意識を考察する。『日本美術年鑑』および明治から昭和初期にかけて刊行された美術雑誌に記載された各団体情報についてその構成員を調査すると(注9)、①流派、指導者などの教育背景を同じくし、会員相互の親睦を主な目的とする、門人会、校友会的な団体、②同職種の従事者による、産業振興を目的とした団体、③同郷出身、同一地域の居住など、地縁関係を基礎とする団体、④構成員のジャンルや地域に限定せず、美術活動上の目的を共にする団体の4つに大別される。美術団体が数を増す明治中頃から最も事例が多いのは、門人会、校友会的な団体であり、特に強い師弟関係に支えられた日本画において顕著である。また、②では、金工、漆芸、織物などの工芸分野を中心に全国規模の団体が明治30年代より創立され、大正期に入ると都道府県や特定地域を単位とした団体が数を増すようになる。③については、県人会などが典型的な事例として挙げられる。④は、共通の美術思想あるいは活動の実現のために結成され展覧会活動や執筆活動等を行う団体を指し、官展を代表とする既成団体や制度、海外の新美術思潮の伝播に触発される形で創立される事例が多い。以上の区分は常に明確ではなく、一地方における東京美術学校洋画科卒業生を対象とする団体など、時として構成員区分や運営目的が重複する事例もあった。また、①、②、④の美術団体が単純な活動内容を持つのに対し、③の地縁をもとにする美術団体では、親睦交流に留まるものから、積極的な修養を行う団体、社会的運動を行うものなど多様性に富む。2.地縁をもとにする美術家コロニー美術家団体の調査の過程で、明治半ばより特定の地域における美術家の生活共同体が登場してくることが分かった。岩村透邸の周辺に白馬会系を中心とする知己の美術家を呼び寄せた下渋谷などがその初期の例であるが、美術家の親睦団体から美術修養を目的とするものなど、時代を経るに従いその形態は多様化する傾向にあった。こうした地縁をもとにする美術家コロニーの調査を通して、その活動に投影された同時期の美術家の意識を明らかにする。― 28 ―
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