鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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⑸拙稿「根生いの分限、絵描きへの道─尾形光琳を取り巻く環境と作品制作について」『美術研究』⑹山根有三『小西家旧蔵光琳関係資料とその研究 資料』中央公論美術出版、1962年、画稿番号⑺『二条家内々御番所日次記』元禄八年二月十四日の条。一 女院様江御掛物扇子一包 五本緒方光琳絵 被進之 女二宮様江被頼遣也(後略)⑻鈴木健一「霊元院とその周辺」『近世堂上和歌論集』明治書院、1989年、および同『近世堂上歌壇の研究』汲古書院、1996年を参照。⑼歌人が集まり千首の和歌を詠むことは中世から行われており、近世においては4回行われている。そのうち慶長10年(1605)に後陽成天皇を含む36名の歌人によって行われた慶長千首ののち、3回が霊元院歌壇において行われている。貞享千首には25名、享保15年(1730)から翌年にかけて行われた享保千首には21名の歌人が参加している。後水尾院の時代には千首は催されていないが、霊元院の時代には後水尾院の時代に形成された歌壇の基盤を継承したために、大規模で儀式的要素の強い千首和歌を行うことができたとされる。また霊元院の時代には大嘗祭復活などさまざまな朝儀再興が行われ、こうした文芸活動もその一環であったとされている。鈴木健一他編『近世堂上千首和歌集』上下「解題」古典文庫、1998年および注⑻前掲書を参照。⑽九条兼晴の息子である綱平は延宝6年(1678)に二条綱平の養子となったが、兄の九条輔実とは成人後もお互いに屋敷を往き来するような間柄で、そこに光琳が同席している事例も『二条家内々御番所日次記』によって確認できる。⑾光琳の初期の墨画淡彩の優品として知られる「鵜舟図」(静嘉堂文庫美術館蔵)の、抱一による箱書きによってその和歌賛筆者とされる日野輝光も、霊元院歌壇の主要な歌人の一人であり、この元禄千首の当時32歳で、30首の歌を詠んでいる。⑿光琳の代表作である「燕子花図屏風」(国宝・根津美術館蔵)についても、二条綱平の実弟にあたる西本願寺第15世宗主住如光澄がその制作要因に関わっており、住如が江戸に下向していることから東下りのイメージが投影されている可能性についてかつて論じた。拙稿「「燕子花図屏風」と二条家・西本願寺」『イメージとパトロン』ブリュッケ、2009年。⒀仲町啓子「尾形光琳の造形性に関する一考察─百人一首カルタを中心として─」『国華』1024、⒁田中一松「光琳の歌かるた『小倉百人一首』」『小倉百人一首鑑賞』(尾形光琳『小倉百人一首』付属解説書)、小学館、1974年。⒂竹内美砂子「(テーマ解説)受け継がれた画題 その2 三十六歌仙図屏風」『琳派 美の継承─宗達・光琳・抱一・其一』展図録、名古屋市博物館、1994年を参照。⒃山根有三「光琳の画風展開について」『琳派絵画全集 光琳派一』日本経済新聞社、1979年、および同「光琳芸術の特質とその作風展開の意義─代表的な金屏風燕子花図と紅白梅図を中心に─」『光琳研究』二、中央公論美術出版、1997年を参照。392、2007年9月を参照。39。なお図版キャプション中の番号も、同書による整理番号を付す。1979年。― 370 ―

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