鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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研 究 者:京都造形芸術大学 非常勤講師  村 木 桂 子はじめに唐の玄宗皇帝(685〜762)と楊貴妃(719〜756)を題材とする絵画は、古代から近世にわたり出典を広げ、形式を増大し、様式を変化させ、用途を追加しながら描き継がれてきた。なかでも白居易の詩「長恨歌」を主題とする絵画は、一般に古代・中世の作例を「長恨歌絵」、近世の作例を「長恨歌図」と呼び倣わしている(注1)。現存する近世の「長恨歌図」のうち、伝狩野光信(1561/65〜1608)筆の《明皇・楊貴妃図屏風》(フリア美術館)〔図1〕は、金碧濃彩の大画面に玄宗の栄華を描き、為政者のための室内荘厳装置として使用されたと考えられる(注2)。これに対して、『国華』1052号に紹介された《長恨歌図屏風》(個人蔵)〔図2〕は、奈良絵に近似する人物描写がなされており、狩野派の絵師が描いたフリア本とは異なる富裕な町人の祝言調度として使用された可能性が考えられる(注3)。つまり、国華本に見られるように、「長恨歌図」は奈良絵などの近世のメディアの影響を受けることによって世俗的な性格を獲得したのである。しかし、これまで奈良絵の「長恨歌図」の先行研究は、テクスト分析を中心とするものであり、絵画等の関係を問うものは僅かである。そこで本研究では、とりわけ奈良絵の「長恨歌図」を取り上げ、テクストとイメージの両面から分析することによって、玄宗・楊貴妃のイメージの世俗化の様相を明らかにすることである。まず、奈良絵の「長恨歌図」に用いられる二系統のテクストの内容を分析する。つぎにその理由や意味を明らかにするために、大画面の「長恨歌図」では絵画化されなかった、奈良絵に特徴的な三場面の分析を行い、奈良絵が楊貴妃に寄せる通俗的関心を語るものであったことを指摘する。さらに、近世に出版された版本には、奈良絵の「長恨歌図」と共通する玄宗・楊貴妃イメージがあることを明らかにする。そのことは、奈良絵の「長恨歌図」の制作の事情を解明することにもなるだろう。1.近世「長恨歌図」の新たな典拠「長恨歌」の注釈書は、江戸時代前期に多数の版本が刊行され普及した。これらは、室町時代に清原宣賢(1475〜1550)が天文12年(1543)に著した『長恨歌併琵琶行秘』(京都大学蔵)を源泉としている(注4)。慶長年間(1596〜1614)に出版された― 374 ― 近世における「長恨歌図」の調査研究─版本との関係を中心に─

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