鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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する楊国忠が描かれ、車中から楊貴妃が後方の兄を見遣っている〔図10〕。この場面の楊国忠、楊貴妃、玄宗の表情には、いずれ強烈な悲壮感は感じられず、むしろ諦観を感じさせるような淡々とした表情である。わずかに、楊貴妃が振り返って兄を見るという仕草のみで、楊貴妃の不安や心配を表しているかのようである。注釈に「みかどちからなく楊国忠を出し給ふ。軍兵よろこびて馬より引きおろしくびうちきり、鋒さきにつらぬきさゝげて一同に鬨(どつ)とわらふ」とあることから、この部分を絵画化したことがわかる。つぎの第三場面では、画面右手に玄宗が馬車の中から前方を見据えており、中央には楊貴妃の三人の姉が引き出され、兵士が刀を振り上げている様子が描かれている〔図11〕。これも注釈の「女に大分の国をあたへらるゝ事、これ又わざわひのたねなり。これらをころし奉らは我らうらみもすこしははらさんと申す。玄宗ちからなくゆるし給へば、やがて秦国韓国虎国の三夫人をもひきいだしてころし侍べり。」にあたり、注釈書の文言を忠実に絵画化しようとする姿勢が感じられる。さらに、画面左手上部の木のまえには楊貴妃が立っており、彼女に向かって兵士が槍でつき刺そうとしている。今まさに殺されようとする三人の姉や楊貴妃は、逃げる素振りも見せず、泣き喚くでもなく、実に淡々とした表情である。そこには驚きや恐怖という感情は読み取れない。刀を振り上げた兵士の顔が、歯を食いしばり、頬を膨らませて、力を込めているのとは対照的である。この九曜文庫所蔵の大型巻子本に関していえば、楊貴妃の兄、姉、楊貴妃の死を注釈の文言の順に従って三場面に分けて詳細に描くことによって、ライデン本が冒頭逸話で主張した、都落ちをする事態に至った責任を皇帝ではなく、楊氏一族であることを明確に図示しているのであろう。4.近世のメディアにみる玄宗・楊貴妃像─『謡曲画誌』所収の「楊貴妃」近世の版本から、享保20年(1735)に刊行された『謡曲画誌』を取り上げ、玄宗・楊貴妃のイメージを確認する。『謡曲画誌』は、謡曲の梗概に挿絵を付した一般向けの解説書である。本書は、山崎闇斎門下の中村平五(1671〜1741)による本文と、狩野派の絵師である橘守国(1679〜1748)の手になる精密な描写の挿絵で構成され、全十巻に謡曲五十曲を所収したものである(注17)。巻七に掲載された「楊貴妃」は、二丁に本文を、二丁に二図の挿絵を付すという構成となっており、挿絵をみると、「玄宗が楊貴妃の魂魄を捜すよう方士に依頼する」場面と「方士が仙界の蓬莱宮で楊貴妃と対面する」場面の二図を絵画化しているのである。つまりこの二図は、謡曲『楊貴妃』の詞章を確認すれば、最初の場面と最後の場面を描いたものであることがわかる― 379 ―

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