ⅰ親睦を目的とする団体都心部の人口が過密状態となった明治末より、交通網の発達に後押しされる形で都市近郊の開発が進み、同地の自然や情緒を求めて多くの美術家が移動した。中でも、美術家の集中した地域では、田端文士芸術家村(明治中期〜昭和初期)、馬込文士村(大正末期〜昭和初期)、池袋モンパルナス(大正末〜昭和中期)などの比較的規模の大きい美術家コロニーが誕生している。田端では、地元の有力者をスポンサーに得てスポーツ社交団体「天狗倶楽部」が結成され、戦時には寄付目的で展覧会を開催した。馬込では、会合やダンスパーティーなどが頻繁に開催され、芸術論義が盛んになされた様子が伝えられている。また、画学生が中心であった池袋では、在住美術家による絵画研究所の設立や展覧会開催が行われた(注10)。これらの美術家コロニーでは美術家同士の濃密な交流があったが、そうした交流が地域を基軸とした全体的な美術運動へとつながることはなかった。その理由には、これらの美術家コロニーは、地域開発の一つの結果として美術家が集ったこと、それらの美術家の美術ジャンルや美術思潮が多岐にわたっていたこと、その規模が数百人と大きく単一の美術思潮や運動としてまとまりにくかったことが指摘できる。ⅱ美術修養を目的とする団体関東大震災以降、東京西南へと向かう沿線の土地開発は加速度的に進むが、東京から八王子へと向かう中央線周辺には、女子美術学校(現女子美術大学)、帝国美術学校(現武蔵野美術大学)、多摩帝国美術学校(現多摩美術大学)といった美術大学があったことや、地価が安価で都心への交通の便も良かったことから美術家が好んで住んだ。これらの地域には在住作家による多数の美術家団体が多数形成され、展覧会活動に加えて出版や勉強会、講演会などの活動を積極的に行っていた。例えば、昭和11年(1936)に吉祥寺在住の文化人により発起された井之頭金曜会では、月1回、柳宗悦、今和次郎、野口米治郎などの知識人、専門家を招いて講義を受けていた。また、織田一磨をはじめ小畠鼎子、堀田清治ら、洋画、日本画、版画、写真と幅広いジャンルの吉祥寺在住作家が参加した吉祥会は、年に2、3回の合同展覧会のほか、武者小路実篤ら著名作家の招待展を開催した。この他、当時の大手モデル会社であった南郊モデル協会の小林源太郎主催の成層美術団体では、絵画研究所を置き、会報発行のほか、美術に関する講演会を開催した(注11)。単なる交流団体や展覧会団体ではなく、美術の修養を目的とした団体が同地に多数― 29 ―
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