注⑴「長恨歌図」の呼称については、武田恒夫「物語絵から物語図へ」(武田恒夫・辻成史・松村昌家編『視覚芸術の比較文化』「大手前大学比較文化研究叢書」2、思文閣出版、2004年、14〜19頁)が、物語そのものを描く場合を物語絵と称するのに対して、物語を題材とした風俗画的要素に主眼をおく場合を物語図と区別しているため、この区別に従う。(注18)。⑵大西廣・太田昌子『安土城の中の天下 襖絵を詠む』(朝日百科「『日本の歴史』「歴史を読み一方、本文は『長恨歌抄』(別名『やうきひ物語』)などの抄物にみる冒頭逸話の玄宗と楊貴妃およびその一族を中心とした故事を彷彿とさせる内容である。すなわち、楊氏一族の専横に対する旧臣の不満と、政務への関心を失った玄宗に対する厳しい批判が綴られている。続いて楊国忠と楊貴妃が死に至る過程は、陳玄礼が玄宗に楊国忠と楊貴妃に死を給うことを奏上したことや、高力士が楊貴妃を仏堂で縊死させたことなど、登場人物の行為を具体的に示すことによって、『長恨歌抄』の注釈部分に匹敵するほどに詳細な記述をおこなっており、本文の半分をこの記述に費やしているのである。『謡曲画誌』というタイトルにも関わらず、謡曲「楊貴妃」に該当する部分は、本文四十四行中わずかに末尾に記した六行のみである。つまり、この『謡曲画誌』は、謡曲の梗概を一般向けに刊行した解説書であるにも関わらず、謡曲「楊貴妃」では全く語られることのない楊貴妃の親族や楊貴妃の殺害状況に多くの文言を費やして詳細に記述していることがわかる。謡曲「楊貴妃」の主題である玄宗と楊貴妃の悲恋についての記述よりも、謡曲の内容には全く関係のない楊氏一族の逸話を重視する背景には、当時、奈良絵の「長恨歌図」や長恨歌抄の絵入り版本といった近世のメディアによって形成された、通俗化した玄宗・楊貴妃のイメージが、『謡曲画誌』に摂取しなくてはならないほどに、広く町人階層に浸透していた証左であるといえるだろう。まとめ奈良絵の「長恨歌図」で描かれる玄宗・楊貴妃は、玄宗は楊貴妃に溺れる好色な人物として、楊貴妃は一族の栄光と悲劇を象徴する人物として捉えられていた。奈良絵に特徴的な三場面は、いずれも楊貴妃に寄せる通俗的関心を語るものであった。この奈良絵で培われた玄宗・楊貴妃のイメージは、長恨歌抄のみならず同時代に出版されたメディアと交渉することによって、従来持っていた栄華を極めた高貴な人物像を喪失し、町人階層に近接した人間味のある人物を新たに獲得して、そのイメージを一変したと考えられるのである。― 380 ―
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