1976年350〜360頁直す」16、朝日新聞社、1995年、62〜72頁」は、桃山時代の障壁画には最も格式の高い公的空間に金碧濃彩で中国故事人物を描くという法則があるという。⑶拙稿「《長恨歌図屏風》(個人蔵)にみる〈長恨歌図〉の世俗化について─近世的メディアとの交渉を手がかりに─」『美術史』第171冊、48〜60頁、2011年⑷山崎誠「長恨歌抄と長恨歌絵巻 漢籍注釈」(三谷邦明・小峯和明編『中世の知と学〈注釈〉を読む』森話社、1997年)、255頁⑸坂巻甲太「浅井了意関係新資料『やうきひ物語』(長恨歌抄)について」『近世文藝』25、26号、⑹小林健二「『やうきひ物語』と『長恨歌絵巻』─江戸時代前期における絵巻制作の一様相─」『大谷女子大国文』第61号、1986年参照。拙稿「〈長恨歌絵〉の変容─奈良絵系《長恨歌絵巻》を手がかりに─」『美学芸術学』第25号、2010年⑺安野博之「清原宣賢筆『長恨歌・琵琶行抄』の成立」『国語と国文学』第960号、2003年⑻ライデン本系統の作品については、安野博之「我が国における〈長恨歌〉享受の周辺─ライデン本系統《長恨歌前文》を中心に」(『白居易研究年報』第6号、白居易研究会、勉誠出版、2005年)、糸井通浩編『奈良絵本』上(龍谷大学仏教文化研究所編「龍谷大学善本叢書」22、思文閣出版、2002年)を参考にした。⑼安野博之「我が国における〈長恨歌〉享受の周辺─ライデン本系統《長恨歌前文》を中心に」(前出)は、ライデン本の冒頭逸話を10としており、9の「楊国忠が吐蕃の反乱を治められず、味方の首を斬り、その事が発端となって安禄山の乱が起こった」を本稿では、時間の経過があることと、絵画化される際に2場面に分けて描かれ、ひとつの逸話として扱っていない印象を受けたため、〔表〕の⑨、⑩に分けて、11の逸話とした。また、引用するにあたり新字体に改めた。⑽「長恨歌序」は、作者未詳であるが鎌倉時代ごろには成立していたという説と中国人作であるという二説があり、中国人説は、新美一実「白居易の長恨歌─日本における受容に関連して─」(太田次男他編『白居易の文学と人生Ⅱ』「白居易研究講座 第2巻」勉誠社、1993年)、安野博之「室町期における「長恨歌・琵琶行」享受─二つの宣賢自筆本を回って─」(『国語国文』第68巻第9号、1999年)がとっている。また、太田次男『旧鈔本を中心とする白氏文集本文の研究』下巻(勉誠社、1997年、409〜433頁)は、「長恨歌序」の内容を玄宗と楊貴妃がかわした密契に尽きるとしている。⑾新美一実「白居易の長恨歌─日本における受容に関連して─」(前出)⑿同前⒀安野博之「我が国における〈長恨歌〉享受の周辺─ライデン本系統《長恨歌前文》を中心に」(前出)⒁安禄山が産湯を使う場面は、ライデン本、大谷本ともにほぼ同じ文言である。⒂仲町啓子「日本における〈唐美人〉の絵画化とその意味」仲町啓子編『仕女図から唐美人図へ』「実践女子学園学術・教育研究叢書」、実践女子大学、2009年、29〜30頁⒃拙稿「〈長恨歌絵〉の変容─奈良絵系《長恨歌絵巻》を手がかりに─」(前出)⒄小林保治・石黒吉次郎編『謡曲画誌』勉誠出版、2011年⒅小山弘志・佐藤健一郎校注、訳『謡曲集』一「新編日本古典文学全集」58、小学館、2003年、― 381 ―
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