鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
398/537

4)。ダンドクは六曲一双形式に定型化がみられるいわゆる「伊年」印草花図には描かれなかった植物であり、相説の周辺で新たに採録された植物であると考えられる。一方、渡辺始興(1683〜1755)の「草花図屏風」(二曲一隻、フリア美術館)や、落款は無いが始興筆とされるアシュモレアン美術館の「四季草花図屏風」(六曲一双)などに描かれ、さらに始興が仕えた近衛家煕(1667〜1736)の「花木真寫」や陽明文庫が所蔵する草花図15枚を貼交ぜた屏風にも登場する〔図3〕ことから、この頃に比較的新しく珍しい植物であったとみえ(注5)、宗達派の画家たちがその時代の植物に関する情報に敏感に反応していたであろうと考えられるのである。また、この宗達派の草花図の展開における同時代に注目を集め始めていた本草学への関心の高まりの影響については、すでに西本周子氏が指摘されている(注6)ところであるが、伊年印草花図が宗達の生前から制作されていたとして、相説がその後継者である宗雪のさらに後継者であるとするならば、17世紀後半から18世紀前半の頃に活躍していたと想定され(注7)、ちょうど始興や家煕と時代が一致する。そしてそのころ、相説が制作活動の拠点としていたと考えられる金沢においては5代藩主・前田綱紀(1643〜1724)の治世であった(注8)。綱紀は多岐にわたる書籍を蒐集し、今日の尊経閣文庫の基礎を築いた。そのなかには本草学が含まれ、綱紀は造詣が深かったことも知られており、相説の活躍期に草花図の制作を後押しするような地盤があったとも考えられる。綱紀の祖父で綱紀の学問にも大いに影響を与え、金沢の繁栄の礎を築いた前田利常は、徳川家との微妙な関係から王朝文化に傾倒し、京からたくさんの職人を呼び寄せて仕事を依頼しており、俵屋宗雪や本阿弥光悦、五十嵐道甫、後藤顕乗らも出仕したが、こうした職人のほとんどが法華信徒であって加賀一向の文化の中に同様に強固な組織力で成る法華信徒の文化を投じ、一向の組織解体と藩の体制づくりの一助となった可能性も見込まれるだろう。金沢という北陸の地方都市において宗達派の活動の継続を可能にした要素は、時代とともに変化しながら維持されていたのではないだろうか。「秋草図屏風」を概観し、相説の作品が「伊年」印草花図とはやや異なる方向へと草花図を導きつつあったことがわかる。金地の作品が極端に少ないことについては、時代的な嗜好の変化や相説と宗雪とでは立場や仕事の依頼者層が異なったことなどが要因と考えられる。宗雪の作品は数少ないが、いずれもが大画面でほとんどが金地であるのに対し、相説の作品の数は多いが、ほとんどが素地の作品で大画面も少ない。宗雪は大名家である前田家に出仕していたことが記録上にも現れるが、相説には仕官やパトロンに関する記録がない。この点については相説ひいては宗達派を取り巻く状― 388 ―

元のページ  ../index.html#398

このブックを見る