鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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設立された背景には、多くの文化人や学者が集うことで生まれた武蔵野の文化・学術的な地域性や、展覧会や講演会開催に対する地元住人の理解と支援があった。ⅲ美術思潮を掲げる団体特定の美術の理想を掲げて美術家コロニーを形成する動きは、大正期より活発になる。その最初期のものとして挙げられるのは、明治39年(1906)の岡倉天心が茨城県五浦に移した日本美術院である。風光明媚な海岸地に魅せられた岡倉は、フランスの代表的美術家コロニーのバルビゾンになぞらえて、同地に東洋のバルビゾンを建設することを夢見た。天心は、前年の講演「絵画における近代の問題」の中で社会の動向や批判から独立した芸術創作の場の必要性を説いており(注12)、日本美術院の移転は、単なるバルビゾン派の自然主義への憧憬だけではなく、芸術至上主義的な理想郷の創出という意図があったといえる。斎藤与里もまた、芸術の理想郷を創ることを目指した一人である。大正7年(1918)、斎藤を中心とする数人の美術家は、地主の支援のもと自給自足によるアトリエ村「新しい村」の建設を宣言した(注13)。性急な進行計画のためか村の建設は実現しなかったが、その発想は同年に開村した武者小路実篤の「新しき村」に触発されている。斎藤は、パリ留学から帰国直後より美術と社会の関係に関する発言を度々行っており(注14)、美術家コロニー形成の発想は、自由主義と芸術至上主義に支えられた創作活動という斎藤の美術思想を反映していた。「新しい村」の他にも、彫刻家佐藤朝山による工芸の「新しき村」など(注15)、大正末から昭和初めにかけて多数の美術家による美術家コロニー建設の計画が挙がっている。また、美術家だけでなく、大規模な地所を所有する富裕層による美術家コロニー建設の提案もなされている(注16)。これらに共通するのは、社会や経済の影響から離れた美術制作の場の創出という思想であり、資本主義経済の発展と共に貧富の拡大や都市環境の悪化など社会の歪が顕在化してくる状況の中で、経済や政治から乖離した一存在として芸術が理想化されている。義務教育制度の制定によって増大した教養層の間で、同時期、ウィリアム・モリスらの社会主義思想が流行したことは、こうした芸術の理想化を広める要因となった。第3章 海外の美術家コロニー19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ各地で美術家コロニーが誕生した。Nina Lübbrenは、当時の雑誌記事を手掛かりに郊外および地方における美術家コロニ― 30 ―

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