1955年よりMoMAで開催された「人間家族」展には、スタイケンと助手のウェイン・ミラーたちによって、68ヵ国273人の写真家による503枚の作品が選ばれた。同展は、人間の誕生から成長、死に至るまでを概観し、またその生命の永遠の持続の物語を表している。同展はキリスト教的世界観の人間の誕生に始まり、クライマックスで人類は自ら作り出した核兵器によって新たな不安に直面する。第二次世界大戦終結と冷戦開始を象徴する核の表象について、「人間家族」展を通して考察することで、冷戦下のプロパガンダとしての同展の性質や各国における受容の相違を示し、同展が冷戦後の文化遺産へと桁上げされる過程を検証することができる。そのため、本稿では、日本展を特徴付ける「原水爆」セクション(注2)における展示に着目する。同展の中で、原水爆写真がどのような意図で展示されたかをまず確認し、アメリカ合衆国・カナダ、ヨーロッパ、日本の巡回における写真の選択とメッセージの読解を試みる。なお、同展における水爆実験の写真の存在についてはこれまでに言及されてきており、ジョン・オブライアンらの先行研究がある(注3)。しかし、日本巡回展版について詳しく述べられていないため、本稿では1956年の日本展における原爆写真の展示構成を、アメリカやヨーロッパの展示と比較し、特質を考察する。2.「人間家族」展における原水爆写真の位置付けアイゼンハワー米大統領は1953年12月に国連総会で演説を行い、「原子力平和利用Atoms for Peace」プログラムを推進し始めた(注4)。「原子力平和利用」は、核の抑止力によって世界の平和を保つこと、核エネルギーの平和利用を目的としていた。同キャンペーンのために企画された「原子力平和利用」展は、USIS(注5)によってヨーロッパではジュネーヴを第1回開催地に巡回し、1955年に東京を巡回した(注6)。「人間家族」展もまた「原子力平和利用」プログラムのシナリオに合致しており、USISとコカ・コーラ、MoMAのインターナショナル・プログラムによって巡回した。しかし、「人間家族」展ミュンヘン開催時の報告によれば、「原子力平和利用」展とは異なり、間接的な表現が鑑賞者の共感を得るのに効果的であったとされている(注7)。例えば、「家庭と会社」のセクションには、「この火はこれを神聖に用いるならば世々人々を助けるものとなるだろう。しかし、彼らもしこれを誤って用いるならば火は彼らに大害を及ぼす力となるだろう。シゥー族(アメリカ・インディアン)」と「原子兵器と原子力とは原子時代の象徴である。それは一方においては心理的不安と世界破― 397 ―
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