3.日本巡回展、「ザ・ファミリー・オブ・マン、われらみな人間家族」3−1.日本展における展示の相違とその理由シカゴ・インスティテュート・オブ・デザイン(通称ニュー・バウハウス、後のイリノイ工科大学)の生徒で、写真家の石元泰博は、同校の教師であった写真家のハリー・キャラハンを通してスタイケンと知り合った。1953年にシカゴから日本に帰国するに当たり、石元はスタイケンから「人間家族」展のための日本の写真家のプリントの収集を依頼されている(注12)。そして、日本の写真界の代表者による協力を得て、55年の「人間家族」展では、プロ、アマチュアを含む10人の日本人写真家が紹介された(注13)。東大・丹下研究室が担当した会場の展示構成は、すでに出版されていたカタログに従って再現された。ニューヨーク展では展覧会よりカタログが後で出版されたため、順序の異なる場面があったが、日本ではそういったことのないようにスタイケンから指示がなされた(注18)。しかしながら、1955年の来日をきっかけに、日本展ではより多くの日本の写真家を紹介しようというスタイケンの意図の下、ニューヨーク展に1955年、東西陣営を隔てるベルリンを皮切りに世界巡回を始めた「人間家族」展は、1956年3月に東京で公開された。同展は日本経済新聞、MoMA、USISの主催で日本に巡回し、実行委員長をスタイケン、実行委員会メンバーを、丹下健三(東京大学助教授)、木村伊兵衛(日本写真家協会会長)、渡辺義雄(日本写真家協会副会長)、金丸重嶺(日本大学教授)、石元泰博(写真家)、河野鷹思(女子美術大学教授)、フランセス・ブレークモア(USIS展示係長)、円城寺次郎(日本経済新聞社編集主幹)としている。東京・日本橋高島屋展は初日から反響を呼び、日本は同展巡回国の中でも最も成功した国の一つであった。MoMAで製作された写真パネルをそのまま日本に巡回するには順番を待つ必要があり、また東京だけではなく日本全国に巡回するよう企画したため、日本で独自にネガを複製することになった(注14)。「人間家族」展を特徴付ける大型写真パネルの製作技術について日本の写真界の事情を確認するために、スタイケンは1955年8月に来日している。「人間家族」展日本巡回展版の写真パネルのためにネガの引き伸ばしを担当したのは、山端祥玉の経営するジーチーサン商会である。55年の来日時、スタイケンと日本展企画者はジーチーサン商会を訪れている(注15)。日米の写真技術には相違があったため、日本展では米国から送られてきたネガからポジを作り直し、そこから写真を引き伸ばした(注16)。また、全体の白黒のトーンは作家によってばらつきが出ないように調整されている(注17)。― 399 ―
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