はないプリントが加えられることとなった(注19)。彼はプリントやカメラ雑誌をアメリカに持ち帰った上で50点余りを選択、そこから日本の実行委員会が34点に絞り込み、東京展に追加している(注20)。それは、欧米人の姿で表された各場面の人間の行動や感情が、日本人には共感しにくいという理由もあってのことである。このような経緯から、同展全体の10ヴァージョンの中で、日本版は4つ存在したことが記録されている(注21)。以上のように、日本展は欧米の展示とはいくつかの点で展示構成が異なっていたが、そのことが同展のコンセプトに及ぼした影響について、「原爆」セクションの展示を中心に述べていく。3−2.日本での原爆写真の展示を巡ってニューヨーク展では、「戦争の顔」のパネルの中央に置かれた山端庸介撮影の長崎の少年の写真にはスポットライトが当てられて強調され、その後の黒い部屋に展示された水素爆弾の写真には唯一カラースライドが使用され、後ろから光が当てられていた。その他はすべて白黒写真のパネルで構成されている「人間家族」展の中で、この部屋は異質な存在であった。そして、核兵器の使用を禁じるよう警告するラッセル−アインシュタイン宣言の一節と被爆者である長崎の少年の表情と不気味に光るキノコ雲の写真とが呼応することで、核に対する潜在的な不安が表現されるよう意図されていた。しかし、アメリカの鑑賞者にはキノコ雲の写真は単にきれいな写真として受け取られたという。アメリカでの展示で原水爆の表現が上手くいかなかったことから、スタイケンは日本巡回展に際して、原爆の表現を日本の実行委員会に委ねた(注22)。それゆえ、日本巡回展では日本の実行委員会によって、「原爆」のセクションにはキノコ雲の写真に替わって、新たに5枚の山端の写真が加えられた。それらは「人間家族」展で用いられているモンタージュの手法に従い、廃墟となった長崎の風景の写真パネルが拡大され、その上に4枚の人物のパネルが配置されている〔図5〕。背景となった爆心地付近の風景には壊れた瓦と焼けた死体が見られるが、その上に左から、「救護を待つ負傷者」、「おにぎりを持つ母子像」、「乳児を抱いた父親」、「負傷した弟を背負った兄」の4枚の生存者の写真が重ね合わされている。いずれも、原爆報道規制解除の後に出版された山端の写真集『原爆の長崎』(1952年)に含まれる代表的な記録写真である。このパネルからは、日本の主催者側にヒューマニズムの写真を通して原爆について知らせようという積極的な意図があったことが窺われる(注23)。確かに、MoMAで展示されたカラーのキノコ雲の大型写真は、当時最も核兵器の開発が進んでいたアメリカ国家の威信を視覚的に示すものであった。しかし、日本側の被爆― 400 ―
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