体験が明確に現実味をもって表現されたことで、日本での展示は具体的な事実として原爆の恐ろしさが示され、象徴的な核の脅威といった冷戦的メッセージを欠くこととなった。「人間家族」展での原水爆セクションの写真の選択には、日米双国の歴史認識のずれや立場の違いが表れたのである。3−3.原爆写真公開における自主規制東京展開幕から数日後、当時の在日アメリカ大使ジョン・ムーア・アリソンの招待による昭和天皇の訪問の際、5枚の長崎の写真パネルはカーテンで隠され、その後は再び来場者に公開された。共同主催者であるUSIS局員の指示に従い、原爆のパネルをアメリカ大使に見せないという日本の主催者の配慮は、すぐに報道されてスキャンダルとなった。そして翌日には、スタイケンをはじめとする米実行委員会の要請を請けて撤去された。実際には米大使に対する自主規制であったが、日本国内では被災写真を天皇の目に触れさせなかったことの方が大きく取り上げられた。日本人鑑賞者の展覧会の内容理解を助けるために、日本展に写真を加えることにスタイケンは同意していた。同時に、55年の来日時、山端庸介の写真を見たスタイケンはこれに深く感動していたため、誤解が生じたという(注24)。他方、原爆セクションの展示を任されていた日本の主催者は、長崎の写真パネルについてスタイケンの最終的な承認を得ていなかった。この事態に対し、スタイケンの編集権が当時ほとんど保護されていなかった写真家の著作権よりも尊重されて、後から加えられた山端の写真パネルは除外され、その後どこにも巡回していない。その理由について、スタイケンは、原爆は特定の事件であるから、普遍的な人間像を表す「人間家族」展の趣旨に合わないという旨を述べている(注25)。原爆を「特定の事件」として扱うことは、すぐに波紋を投げかけた。撮影者の山端自身も「議論はともかくとして 不幸にして平和が乱された場合 これは最早特定の事件ではすまされないと思う」(注26)との発言を後で残している。このように、原爆を人類が共有すべき普遍的な問題として「人間家族」展の中で取扱わない点について日本展では疑問視されてきた。しかし、原爆被害の写真がまだ公開されはじめたばかりの日本では、山端の写真への関心は一般的にも高かった。それゆえこれらの出来事によって、鑑賞者の注目をそこだけに集め、予め意図された物語に沿って写真が鑑賞される効果を妨げたに違いない。4.おわりにルクセンブルクの展示はヨーロッパ巡回展版の復元であることからも、原水爆のセ― 401 ―
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