Director of MoMA, 26 March, 1956. 玉の記念写真が残っている(撮影者は日経新聞社社員)。次の文献では1952年とされているが筆者の山端祥吾氏への確認によれば1955年とのこと。Rupert Jenkins, “Introduction,” NagasakiJourney, The Photographes of Yosuke Yamahata August 10. 1945, Tokyo: Charles E. Tuttle Company, 1995, p. 19.⒃「日本初巡回展をふりかえる─渡辺義雄に聞く」『The Family of Man写真展カタログ』G.I.P.Tokyo、1993年、28頁。米国から送られてきたガラス板ネガは、現在、日本大学芸術学部写真学科に保存されている。内容はニューヨーク版にほぼ同じ。ネガの引き伸ばしのプロセスについては、石元氏、日本写真家協会の松本徳彦氏らにお話を伺った。⒄注⒁に同じ。⒅神谷宏治「人間家族展の会場構成にあたって」『カメラ』アルス社、1956年6月号、27頁。⒆1957年の金丸重嶺によるスタイケンとのTVインタビューからも、スタイケンが日本人写真家たちの作品紹介に関心を示していたことがわかる。「国際インタビュー第8回 E. スタイケンにきく」、1957年(アメリカ国立公文書記録管理局所蔵、放送局などの詳細は不明)。⒇「ザ・ファミリー・オブ・マンへの招待」『カメラ』アルス社、1956年6月号、27頁。 MoMA所蔵の展覧会記録を参照。大型判は、東京、大阪、名古屋、福岡、京都、岡山、広島、静岡を巡回(東京には2回巡回)。2種類の小型版は次の各都市で展示(コピー1は、仙台、秋田、函館、新潟、札幌。コピー2は、佐世保、小倉、鹿児島、宮崎、熊本、大分)。残りの1ヴァージョンの詳細は不明だが、1957年に7都市を巡回した(横浜、宇都宮、松山、高松、姫路、鳥取、金沢)。 「渡辺義雄と語る」前掲書、138頁。 「…写真展示の順序は多少ニューヨークの場合と異なった部分もあるのだが、テーマ展開のヤマは、当然一致している。…(中略)…世界唯一の原爆被害国として、原爆に対する国民の関心は深いわけだし、スタイケン氏もこの点については日本側にまかせてくれたので原爆の写真も追加したが、写真展を流れるおおらかなヒューマニズムをそこなうものではないと思う。」、丹下健三「展覧会構成について」『日本経済新聞』1956年3月22日㈭朝刊。 Letter to Theodore C. Streibert, Director of United States Information Agency, from Rene d’Harnoncourt, 『朝日新聞』1956年3月27日㈪夕刊。スタイケンの声明の原文は注の文書に記されている。 山端庸介「原爆」『カメラ毎日』毎日新聞社、1956年6月号。― 403 ―
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