ヨーロッパの美術コロニーへの憧れだけでなく、近代化により失われた自然風景や牧歌的生活への憧憬という心理的動機と、鉄道網の発達による遠隔地への移動が容易になったという身体的理由が指摘できる。多くの作家が美術市場や教育施設のある都市に拠点を置いていた中で、夏や冬のバカンスの間だけでも、都市の喧騒を離れて自然の中で新たな創作意欲を得ようとしていたのである。同時期のアメリカの美術市場において自然主義的風景画が人気を博していたことも、美術家を自然風景へ向かわせる要因となった。また、田舎の住民に安価でモデルを依頼できることも魅力の一つであった。美しい森林と伝統的田園生活が画題として見出されたバルビゾンのように、欧米のコロニーの多くは景勝地という地理的条件に起因し、齋藤与里の「新しい村」の様な理想的美術イデオロギーを明確に掲げて結成された目的的コロニーは稀といえる。確かに、ラスキンとモリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に共鳴したヘッセン大公により建設されたドイツのダルムシュタットのように、有力者の支援のもとに建設された美術家コロニーも存在したが、それらは美術工芸の一産業振興政策としての側面が強い。多くの美術家コロニーは、創作活動のユートピアというよりも、むしろ都市の近代化の結果失われつつある自然風景を懐古するノスタルジアの心境を満たす場として想定されていたのである。アメリカでは、薬品会社の社長で不動産王であり、教育や文化の大パトロンでもあったWilliam Van Duzer Lawrenceがアトリエ建設や制作における全面的資金援助を行ったニューヨーク近郊のボクソンビルに位置するローレンスパークのように、富裕層によるコロニー建設の事例が確認された。オックスフォードでラスキンに師事し、その理想的な共同体思想に共感してニューヨークのウッドストックの大規模所有地に友人の美術家を呼んでByrdcliffeという名の美術家共同体を始めたRalph RadicliffeWhiteheadはその代表例である。しかしながら、美術家自身による社会的目的を持った美術家コロニー形成の事例は管見では明らかにならなかった。おわりに欧米においても日本においても、都市化による生活環境の変化への反動として自然回帰の傾向と、交通網の発展やレクリエーションの流行といった社会現象が、近代における美術家コロニーの形成を促す大きな要因となった点は同様である。また、満谷国四郎がイタリアの景勝地にちなんで下落合の高台に美術家村「阿比良村」を構想したように(注18)、19世紀末以降の美術家コロニーの多くが、バルビゾンをはじめと― 32 ―
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