鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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注⑴青木茂、酒井忠康編『日本近代思想体系 美術』岩波書店、1989年、34−84頁。⑵『工部美術学校諸規則』工部省、1877年。⑶森口多里『美術五十年史』鱒書房、1943年、139−148頁。⑷黒田清輝「洋画問答」大橋乙羽『名流談海』1899年、「黒田清輝君を訪ず」『太陽』4巻3号、1898年2月、黒田清輝「美術教育の方針 三」『二六新報』1900年3月27日、黒田清輝「仏国の学生」『中学世界』8巻1号、1905年1月初出など。するヨーロッパの主要な美術家コロニーが持つ、美しい自然の中の美術家の親睦の場というイメージを投影していた。その中で、1910年代以降の日本において、創作共同体としての美術家コロニー構想が、有識者や美術家の間において盛んに起ったことは特異である。そこに、同時期の新興中流階級を含む教養層に支持を受けたラスキンとモリスの社会主義思想が大きな影響を与えていたことは言うまでもない。しかしながら、アーツ・アンド・クラフツ運動の提唱する理想的な共同体への憧れだけでなく、大正末頃より大きな動きとなる「日本画」や「工芸」といった既存の美術の概念および役割、制度に対する問い直しや、美術の社会性に対する議論が、美術家自らを社会に位置づける一手段として集団化を促し、美術家コロニーの結成に繋がったのではないか。個性主義、自由主義、理想主義を謳った『白樺』の登場に象徴される近代自我の目覚めは美術の受容層の拡大と変容をもたらして新たに出現した「大衆」に向かう美術の創造を美術家に求め、旧態依然とした官展制度に対する反発意識が「在野」の美術家を生んだように、美術は台頭してくる大衆社会の中での新たな役割を模索しなければならなかった。団体に帰属することは、個人の出自や職業、活動を明確化する行為であり、それにより個人は団体の構成員として社会的役割を担うようになる。美術家コロニーの形成には、こうした同時代の大衆の台頭という社会現象が投影されていた。⑸芋洗「巴里の美術学生」『二六新報』1901年3月19日より5月7日まで全21回。⑹浦崎永錫『日本近代美術発達史〔明治編〕』東京美術、1974年、461−465頁、および石井柏亭『石井柏亭自伝 明暗』第三書院、1934年、174頁。⑺「緒言」岩村透『芸苑雑稿』画報社、1906年。⑻石井柏亭編『国民美術協会略史』国民美術協会、1930年、2頁。⑼日本美術年鑑編纂部『日本美術年鑑』画報社、1910−1913年、中央美術社編『日本美術年鑑』中央美術社、1925年、同前『日本美術大年鑑』中央美術社、1926−1927年、朝日新聞社編『日本美術年鑑1927年』東京朝日新聞発行所、1926年、同前1928−1933年。『大日本美術新報』大日本美術新報社、1883−1887年。『美術新報』美術新報社、1902−1920年。― 33 ―

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