鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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の①〜⑧〕とかつてドゥォーモに置かれていた祭壇画のパネル3枚〔図2と図3の⑨〜⑪〕であることは疑いない。①〜⑧のパネルについては、先行研究でも美術品接収の際にまとめてミラノに輸送されたことが指摘されており、取り立てて新しい情報は見いだせないが、⑨〜⑪のパネルについては興味深い点をいくつか指摘できる。3.《カメリーノのドゥォーモ祭壇画》と《磔刑図》クリヴェッリがカメリーノのドゥォーモのために制作した祭壇画については、契約書に詳しい内容が記載されておらず、また聖堂内での展示状況の記録も見つかっていないため、未だ本来の姿が判明していない。ザンペッティは、様式とパネルサイズの一致から《磔刑図》〔図3〕をチマーザにした大型祭壇画の再構成案を提示し、ライトボーンもその案に追従している(注6)。確かに現在の《磔刑図》と《蝋燭の聖母》〔図2の⑨〕のサイズは殆ど一致している。一方、ダッフラはブレラ絵画館で《磔刑図》のパネルサイズが改変された可能性を指摘し、《磔刑図》を独立した別作品とした(注7)。残念ながらボッコラーリはミラノへ輸送するパネル以外については報告しておらず、祭壇画の全体像を推察する手がかりを与えてくれていない。しかし、少なくとも「異なる大きさで同じように板に描かれた絵画」という彼の記述は、3枚のパネルが異なるサイズであったことを伝えており、ダッフラが指摘した《磔刑図》サイズ改変の蓋然性を高めている。つまり1810年に異なるサイズであった《蝋燭の聖母》の上に、《磔刑図》がチマーザとして設置された可能性は極めて低くなるのである。また、ボッコラーリの報告は当時の祭壇画の解体状況も伝えている。ザンペッティは、クリヴェッリのモノグラフの中で祭壇画解体の理由として、輸送の便利さと売却の容易さを挙げていたが(注8)、画枠に言及せずパネル毎に報告しているボッコラーリの記述と、同じ文書群に保管されていた輸送費の報告を見る限り、パネルは輸送前から分解されていたと考えられる(注9)。実際、カメリーノの聖堂の多くは1799年夏の大地震で甚大な被害を受け、数多くの美術品が被害の少なかった聖堂に移されていた。おそらく額縁の老朽化や地震による損傷から、輸送までにすでに分解されていたのであろう。同じマルケ地方のメタウロ行政区から1811年にミラノに運ばれた85点の絵画のうち64点が分解されていない祭壇画であったことも踏まえると(注10)、輸送の簡便化のために祭壇画が分解されたとは考えにくいのである。さらにドゥォーモのためのパネルについての報告からは、ボッコラーリらが廃止されていない聖堂の作品であっても、別の国有化した聖堂の作品と交換することで接収― 420 ―

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