現在では、伝統祭祀「イルチャヨー祭り」(旧歴8月11日)において、「弥勒」を務める男性の背丈に合わせ水色地か黄色地を選び、着用〔図3〕。なお、勢理客では現在、「組踊」には白地の幕を背景に用いている。【黄色地流水蛇籠沢瀉菖蒲文様紅型踊衣裳】沖縄県立博物館・美術館蔵「木綿白地鳥流水蛇籠菖蒲文様衣裳」、および1977年(昭和52)頃まで屋我地村我部の踊衣裳として使用されていた「木綿白地蛇籠流水菖蒲葵鳥模様紅型衣裳」(名護博物館蔵)と同模様。【水色地霞枝垂桜蝶山水菖蒲桜菊文様紅型踊衣裳】袖口と前身頃は両面染。他の紅型踊衣裳にみられるように、舞台での動作に伴い袖口や裾から生地の裏面が見えてしまうことを念頭に置き、なされた工夫である。型紙一枚で染められた肩から胸元にかけての図案が、屋嘉の踊衣裳(金武町指定文化財「白地霞枝垂桜流水菖蒲籬朝顔花の丸模様紅型衣裳」)、および、松坂屋コレクション「白地霞枝垂桜燕鳥に菊扇色紙短冊模様衣裳」と同一。裾の模様も竹富で若衆踊に用いられたリンクヮー「木綿黄色地山水菖蒲鶴亀文様衣裳」(大正時代、喜宝院蒐集館蔵)と同模様だが、腰に配された蝶の意匠が興味深い。これまでの調査の中で、沖縄県内に伝世される琉球王朝時代〜大正期の踊衣裳、あるいは王朝時代「楽童子」の着用とされる紅型衣裳の意匠が、伝世品が少ないながらもある程度共通した意匠を表す点が明らかになっていた(注4)が、今回の調査で見出された勢理客の踊衣裳も同一の特徴を有しており、廃藩置県後、各地域に継承された紅型踊衣裳に特定の意匠が意図的に選択されていたことが、さらに裏付けられる結果となった。染めの技術は水色地の方が優れ、年代も水色地は王朝時代最末期〜明治期にさかのぼり、優れた紅型師によるものと考えられる。黄色地は明治〜大正期の作か。黄色地紅型は染め・彫りともに技術的にはやや劣るが、いずれも伊是名における廃藩置県後の芸能祭祀の様相を伝える貴重な伝世資料である。なお、伊是名村をはじめとする豊年祭踊衣裳として残された「紅型」の表象する思想的背景を考察する上で、紅型の技術が伝えられない本島周辺の島々に遺された紅型は重要である。初公開となる資料に、小浜島の佐久伊嶽神司 登野貞(1902−2000)(勲七等瑞宝章受章)が、神行事の際に使用したという紅型のうちゅくい(風呂敷)がある〔図4〕。神司の簪とともに遺された。紅型は沖縄本島以外では染められていない。しかし、竹富島にも「祝祭典の長膳を包む風呂敷」として紅型のうちゅくいが遺され(喜宝院蒐集館蔵)、久米島には久米島の兼城ノロ(神女)が祭祀の際に用いた紅型神衣裳ほか数点の紅型神衣裳が伝えられる。それら紅型に表された意匠や技法は、琉球王尚家一族が着用した最も高い技術の紅型に比較すればやや劣り、権威の一表象とし― 431 ―
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