鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
442/537

て王族一門に用いられた紅型とは技術的にも差別化されたものであったと窺われるが、王府からはなれた各島々の「祭り」や「神事」という祭祀の場に用いられた紅型は、権威の一表象として存在したと推測することができる。三 踊衣裳─第二次世界大戦後の舞踊家所蔵衣裳1.親泊興照(注5)親泊興照旧蔵の「白地松皮菱繋に扇団扇菊椿文紅型踊衣裳」(親泊久玄所蔵)〔図5〕。王朝時代の古典柄に典拠した意匠である。城間栄喜ほか多くの紅型師によって制作された同一柄の紅型が、鎌倉芳太郎旧蔵資料ほかの古典柄の配色に準じて臙脂(紫)の松皮菱であるのに対し、松皮菱には青色を選び、灰色を基調とする菊や椿の配色が特徴的である。少なくとも興照が1957年前後までの比較的早い時期に那覇で制作したものか。特に青や灰色を多用する紅型は、栄喜に師事した名渡山千鶴子などが好んで制作しており、名渡山紅型研究所(名渡山愛順主宰)、もしくは、知念績弘周辺の作かと考えられる。上質の絹地は経年でややクリーム色を帯びたやわらかな印象となっている。戦前、沖縄の反物の主流は「ふじぎぬ」と呼ばれる沖縄県産の絹織物(反物)であったといい(養蚕から行った)(注6)、するりとなめらかな手触りの同衣裳の絹地は、戦後、紅型として用いられる反物が次第に日本本土から入ってきた「縮緬」へと移行する以前の、貴重な「ふじぎぬ」を用いた紅型と分かる。1966年(昭和41)9月琉球新報社主催 第1回琉球古典芸能コンクール出場の際には、後に二代目を襲名した親泊(島袋)久玄が興照から借用して「綛掛」を踊った(久玄は同コンクールで新人賞受賞)。興照は同衣裳を「綛掛」や「かぎやで風」で用いたという(注7)。興照旧蔵紅型踊衣裳として直接に伝えられた貴重な現存資料。2.宮城能造(注8)今回の調査で、知念績弘による踊衣裳「白地紗綾型に団扇檜扇紅葉模様紅型衣裳」(沖縄県立博物館・美術館蔵/琉球王尚家伝来の紅型衣裳を典拠とする古典柄)が、宮城能造の踊衣裳であったと判明。地紋とされた紗綾型に紫色を用いた歌舞伎衣裳にも近い配色の同衣裳のほか、能造は薄紫色地に龍の丸紋などを散らす知念作の紅型衣裳などを着用したが、特に重要な点は、能造が名護市(名護市大中区公民館「白地松枝垂桜燕流水菖蒲模様紅型踊衣裳」)(注9)や伊是名村など地域の芸能に、自ら衣裳や幕を制作したことである。多くのスケッチなどを遺した能造が、伊是名に「組踊」の猿面(注10)や地域の舞台道具としての踊衣裳・幕など独自の表現を伝えたこと― 432 ―

元のページ  ../index.html#442

このブックを見る