鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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「幕ができあがったとき、石臼でむぎを挽いて、茶碗でむぎこ溶かして、天ぷらをつくった。小皿の大きさの天ぷら。(当時は)小麦粉が無いから。すーだいという係のうちでお祝い。役員が生地を持って、本島に(染めを)頼みに行った。八重山では(紅型は)やらない。(紅型は)本島。」〈戦前の幕について〉「古い(戦前の)幕を預かっていた。押し入れの段ボール箱の中に入っていた。おじいさん(ご主人内盛正玄(大正14年生れ)氏の父親カナー)が預かっていた。たらい二つ使って、洗ってきれいにしようとしたら、ぶー(苧麻)が(繊維が傷んでしまっていて)だらだら落ちてしまって。藍染めの紺色で模様は松竹梅鶴亀だった。ぼろぼろだった。」このほか、西集落:1976年(昭和51)制作の舞台幕も、集落の婦人達が糸を紡いで製作した反物に、沖縄本島で紅型を染めたもの。模様は同じく「松竹梅鶴亀」に日輪を配する。このように明治大正期の古式が残る八重山の「松竹梅鶴亀文様」紅型舞台幕は、第二次大戦後、城間栄喜を中心に技法が継承されたが、一方、現代の幕の中で特に注目しておきたい重要な作品は、現在、読谷村文化センター鳳ホールで使用される玉那覇有公(国指定重要無形文化財「紅型」保持者)(1936− )の舞台幕である〔図14〕。師である栄喜の「力強く勢いよく描くように」という言葉を守り制作された同幕は、有公の他の幕にまして明るく華やかな色彩による生き生きとした文様表現がなされる。生前、栄喜は紅型幕について「幕に負けてしまう芸ではなく、幕の紅型模様にも負けないだけの踊り(芸能)をしてほしい」と語ったという(注14)。このほか現代の舞台幕には、城間栄順作国立劇場おきなわ所蔵品などがある。2.伊是名村仲田─宮城能造の楽屋幕(座敷幕)宮城能造が描いた手書きの幕〔図15〕。遠近法をもちいた襖絵には菖蒲と鶴が描かれる。能造が、約1ヶ月間、仲田に滞在した折、制作された。1956年(昭和31)頃のことである。座敷幕の現物は失われている。現在の公民館造成に伴い、新しい幕制作の見本として日本本土の「緞帳屋」に送った後に所在不明となったという。同幕は、1978年(昭和53)頃まで使用されていたが、現在は、能造の幕を元に本土の緞帳屋が制作したものを使用。生地はメリケン袋をつなぎ合わせて「道で縫った」もので、伊禮一昇によれば、住民達が見守る中、能造は「即興で」この幕を描いたという。【伊禮一昇(元 仲田区長)の話】:仲田の組踊「仲田では「伏山敵討」「束辺名夜討」「矢蔵の比屋」「姉妹敵討」を繰り返して演じている。昔は「手水の縁」もやった。わたしは4年ほど演技をやって、29歳頃から10年くらい指導をした。公民館で組踊の指導している時、50代60代の先輩たちのために舞台から離れたところに席を設置して、感― 436 ―

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