想は紙に書いてもらって、演技が終わってから紙を渡してもらうようにした。いっぺん通しで演じて、指摘されて、また通し。夜の12時近くまで。(終わるのが)1時2時の時もあった。稽古は、最初の1週間はせりふ覚え。次に立ち稽古。台本は2週間で回収してしまう。次は、楽屋と役者のタイミング合わせ。…「束辺名夜討」は夜の仇討ちだから、松明をつけて行く。仲田では(松明で歩き続ける場面も省略せずに)すべてやる。曲に合わせて歩く。柳節17分とか。…(組踊「二童敵討」の)稽古の時、二童の酒を飲む場面で、(杯に)本当に酒を入れたりして。皆、酔ってしまって、立ち上がれなくなってしまった。…」「中学生になるとき、本島の親戚の家に下宿した。若い頃に亡くなってしまった人だったが、これを読みなさいと組踊の本を買ってきてくれた。亡くなった時、形見分けで組踊の本をもらった。昭和37年発行の組踊全集だった。」「父(政則)は、島に来た宮城能造先生に2度ほど、(芝居をやらないかと)勧誘された。でも父は長男だったので、家を継ぐために能造先生の勧誘を断った。」3.眞境名由康(注15)と寄贈幕幕の両端に「眞境名由康舞踊研究所 江」「後援会」(朱色)の文字が染められる〔図16〕。木綿の生地に片面染め。模様は、左右にうちゅくい(風呂敷)の図柄として典型的な松竹梅の丸紋と、丸紋の中央に鶴の文様。幕中央には日輪に鶴が表された檜扇と、流水のようにも見える朱色の線に沢瀉の葉、でいごの花が染められる。眞境名(瀬底)正憲(国指定重要無形文化財「組踊」総合認定保持者、眞境名由康組踊会会長、宗家眞境名本流「眞薫会」会長)の話:「牧志にあった眞境名由康先生の稽古場の奥にしまわれていたのを見つけ、黄色地の横の部分を上下に付け足して現在の大きさにした。若い頃、稽古をしていた時には見たことが無かった。紺地の幕と一緒にしまわれていた。」「鶴の形は日本航空(JAL)の鶴に似ている。終戦の余韻が残っている時期、ディゴは歌にも使われた。「ディゴの木ぬ花や かりてあとからどう 花ぬさちゅる」。ディゴは復興の象徴だった。(生地の木綿は)、メリケン袋の生地と同じで、軍服の払い下げをほどいたりするなどして作ったものだろう。暈かしが紅型風だけれど、染め屋で紅型風に染めたものではないか。」「ディゴと眞境名由康先生とはつながりがある。由康先生が創作した「人盗人」では、(子どもを)ディゴで誘って、次に、人形で誘う。」生地を城間栄順(城間びんがた工房)で補修後、眞境名由康組踊会にて「人盗人」などに使用。玉那覇道子によれば、戦後まもなく城間栄喜の親戚にあたる男性が那覇でのぼりなどを染めていて、特に「紅型風に」染めることも行っていたという。ただ、― 437 ―
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