【調査協力者】(敬称略、順不同、役職名は割愛させていただきました) 玉那覇有公、玉那覇道子/親泊久玄、親泊邦彦/真境名律弘/花城正美、知念かねみ、飯田泰彦/島仲由美子、島仲彌喜、吉澤やよい、島仲彌、島仲ナミ、大山栄一、内盛スミ、友利勝、阿佐伊拓、上勢頭同子、上勢頭立人/濱里清二、伊禮一昇、伊禮正隆、仲田好二、山本紗織、名嘉和枝、泉トミ、濱里キミ、前川史子、松田昭美、中川志賀子、中川貞眞境名由康の生前にこの幕が使用されたという記録は残されておらず、時代の変化の中で新たな意匠(景色)を舞台に求める動きの一方、王国時代から続く伝統的世界を舞台に表現し続けた眞境名由康の思想がいかに交錯したかという点は、興味在る問題といえる。まとめ戦前の舞踊家(男性)に師事した親泊久玄らによれば、わずかに天女の衣裳について金武良章から、黄色地に鳳凰の模様を表した紅型を着けたことを聞いたほかは、親泊興照ら師匠が特に紅型踊衣裳について語ったという記憶は無く、むしろ親泊興照や眞境名由康らにとって重要なことは、舞踊や組踊の内容を問うものであったという。わずかに残された記録写真などからも、各演目に特定の意匠(紅型)が固定化した様は見出されない。近現代の紅型踊衣裳の大きな特徴は、第二次大戦後、次第に各舞踊家が創作柄をも含めて紅型踊衣裳に個性を求めるようになった点である。戦後、伝統芸能の世界に参画した女性舞踊家を中心に、舞踊家それぞれは各人の師弟関係や趣向にもとづいて衣裳を選択する現状にあり、それは、第二次世界大戦前後の舞踊家、および現在70代以上となる国指定重要無形文化財「組踊」保持者(各個認定)や同総合認定保持者ら(男性)の大半が、自身の舞踊がある程度のレベルにまで達した段階で、初め名渡山愛順の衣裳を染め、次に城間栄喜の紅型衣裳を求める傾向にあった様相とは異なるものである。今日では「舞踊」という身体行動のほかに、各舞踊家に所蔵される紅型衣裳を通じても各舞踊家の人柄や思想が少なからず伺われるのであり、紅型衣裳は琉球王国時代における権力の一表象から舞踊家の個性の一表象となったともいえる。廃藩置県後に琉装の風習が失われた沖縄県にとって、芸能の舞台は「紅型」衣裳が今なお生きた着衣として存在し続ける場であるのみならず、舞踊家の選択と思想を問うものとなっている。戦前、あるいは第二次大戦後紅型復興期を中心とする第一世代、および第二世代の紅型師に関する重要資料として、今後も芸能の場に於ける紅型について調査を行って参りたい。― 438 ―
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