せ、一種の既製品として流通し、受容されていたことが想定される(注3)。その中でも、門楣を支える門柱の上部にほぼ必ずと言ってよいほどあらわされるのが、屈曲しオーバーハングする樹木にも似た山岳(或いは雲気)と、その上に坐す西王母の図像である〔図2〕(注4)。この西王母の図像についてはすでに先学諸氏による度重なる論考・言及があり、特に李W氏による詳細な研究では、図像形式に従った大よその分期的特徴までもが指摘されている(注5)。言うまでもなく、西王母の図像は漢代美術中に在ってほぼ全国的に普遍的な人気を誇った主題であり、当時の神話的図像の中では比類ない重要性を誇る。しかしそれ故に、陝北地域の画像石に見える神話的図像をめぐる議論においては、西王母を議論の中心に据えて見ることによって、逆に見過ごされている論点があるように思われる。李W氏による西王母図像変遷の段階的分析によれば、門柱上部に配され、屈曲しオーバーハングする山岳上に坐す西王母の図像は、左右ともに頭に勝を戴く西王母が配されるものから、片方が六博を打つ二人の神人へと変容したものを経、東王公と対となる完成形へと段階を踏んで変容したことが指摘されている(注6)。しかしここで注目すべき点は、陝北地域の小規模墓葬の墓門画像石における西王母の図像は、対となるべき男性神・東王公の図像が大よそ二世紀の中葉頃までに確立するに至る期間(注7)、幾たびかの図像的変遷を経つつも、門柱の上部という左右対称性が要求される場所に、一貫して配置され続けている点である。この原則が陝北地域において唯一絶対のものでなかったことは、同地域から出土した他の作例の存在が証明している。例えば綏徳県四十里舗出土墓門門楣画像石には、門楣向かって右側の端に、端坐する正面観の西王母が眷族とともにあらわされる〔図3〕。また神木県大保當16号墓墓門画像石のように、画面向かって左側の雲気上に、やはり正面観で端坐する姿であらわされる例もある。このように門楣部分に正面観であらわされた西王母の作例も複数存在するのであるが、それらが少数派に過ぎないことは割合の上から明白であり、また綏徳県四十里舗出土墓門画像石等は山東省嘉祥県一帯の影響下に製作されたものであることが想定されるため(注8)、この地域の特性とは見なしがたい。それでは何故、陝北地域の大多数の画像石墓では、門楣を用いて西王母を配する構図は採用されないままに終わったのであろうか。墓門を構成する石の中で最も比重が高いのは、言うまでもなく門楣である。西王母を不老不死や死後の世界を司る女神と位置づけるのであれば、配される場所は門楣こそがふさわしく、かつ東王公との対概念が成立する以前であれば、そのほうが画面構― 444 ―
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