成上、合理的ですらある。しかし先述のように、陝北地域における西王母の図像は圧倒的大多数が門柱上部に、左右一対であらわされる形式であるが、一方でこの山上にあらわされる人物像は、西王母と、六博を打つ二人の神人が対となる例のほか、左右ともに勝を戴く人物、または三山冠の人物があらわされる例や、牛首人身像と鳥首人身像が対となる例、弓矢を構えて獣を狙う人物像が配される例までもが見出せ、図像的にはかなりのバリエーションがある。このような図像の配置状況や図像要素の混在ぶりからすれば、陝北地域の墓門画像石のプログラムにおける西王母像は、墓門の図像世界の中において必須の構成要素として配置こそされているものの、多くの場合においてその扱いは従的な立場に止まり、山東地域の祠堂画像石最上層にあらわされる例や、四川地域の崖墓壁面や画像石棺にあらわされる例のような、代替不可能な存在としての絶対的重要性を有していなかったように思われる。むしろここで重要視されているのは、柱石が要求する縦長の画面に打ってつけたように当てはまる、山岳の存在そのものであるのではないだろうか。2.山岳に居す神─西王母、牛首・鳥首人身像とその図像的淵源─山上に坐す西王母の図像表現は、永平十二年(69)銘の楽浪郡王吁墓出土の漆盤や山東省沂南県北寨村漢墓墓門画像石等にも見られるが、これは後漢時代、他地域においては図像的にさほど顕著な特徴ではなく、西王母の作例が多数確認される山東地域・四川地域においては、むしろ例外的にしか見られない。陝北地域においても、先に見たような門楣にあらわされるタイプの西王母像には、山岳の表現は付随していない。しかしながら時代を、西王母の図像が登場した前漢時代後半期に絞って見た場合、事情はまた別となる。西王母をあらわしたものと考えられる初期の作例としては、例えば前漢中〜後期の作とされる内蒙古自治区包頭召湾47号漢墓出土の黄釉陶酒尊や河南省鄭州市近辺から出土する前漢時代末期頃の一群の空芯磚〔図4〕、また山東省微山県夏鎮青山村出土の画像石槨等があるが、これら前漢時代末期以前の作例における西王母はしばしば山岳に居す姿であらわされ、山岳表現と密接に結びついていることが特徴として指摘できる。同時代の作例であっても、縦長の画面構成が事実上不可能な鏡背の図像において西王母と山岳景が結びつけられた例は確認できないが、岡村秀典氏は銅鏡の表現世界においては、中心に位置する鈕及び鈕座を宇宙山に見たてる観念が存在していた可能性を指摘している(注9)。これら前漢時代にすでに出現していた西王母の図像的― 445 ―
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