鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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は鳥首人身像と馬首人身像の組み合わせが中心であり、管見の限り牛首人身像は、前漢時代後期の製作とされる微山県夏鎮青山村出土画像石槨(前掲〔図5〕)、及び元和三年(86)の紀年を持つ画像石と伴出の徐州市銅山県漢王郷東沿子村出土画像石、また滕州市西戸口出土画像石の3例にしか確認できない(注14)。この3例がいずれも、前漢時代後期から後漢時代初期にかけての、漢代の行政区画で言う徐州の治下に当たる地域から出土した作例であることは注目に値する事実と言えよう。逆に陝北地域において、技法・図像的に漢代の山東、特に現在の嘉祥県地域の影響を受けていることが明らかな画像石の一群においては、牛首人身像・鳥首人身像はこれとは全く異なる扱いを受けている。その一例が先に〔図3〕として紹介した綏徳県四十里舗出土の墓門門楣画像石であり、この作例においては鳥首人身像が単体で、西王母の侍者としてあらわされている。他方、永元四年(96)の紀年を持つ綏徳県公乗田魴画像石墓の場合、正面観の立像としてあらわされた牛首人身像は、通常の人の頭部を持つ人物像と左右一対としてあらわされており、これと類似した例は横山県孫家園子墓墓門画像石にも見える(類型Cとして〔表1〕に記載)。このような、門柱に辟邪のようにしてあらわされる牛首人身像の例は嘉祥県一帯では未発見であるが、一方の西王母の眷族としての鳥首人身像は、典型的な嘉祥県一帯のそれを踏襲したものである。つまり嘉祥県一帯においては、牛首・鳥首人身像は組み合わせとしては成立しておらず、陝北地域に見られる牛首・鳥首人身像の図像的淵源としては、むしろ前漢時代末〜後漢時代初期の、漢代行政区画で言う徐州地域からの影響を想定することができよう。特に前漢末期頃と推定される微山県の画像石槨において、牛首・鳥首人身像と組み合わせられた西王母はオーバーハングする山岳上に坐す姿であらわされており、図像的には陝北地域の作例と最も近いが、後漢・永元年間(89〜104)頃にまで下る陝北地域における画像石墓の出現までに要する100年近い時間からすれば、直接的影響関係を想定することは困難であり、このような時空間的間隙を埋める材料が発見されることを今後に期待したい(注15)。異域と異界─結びにかえて─古代の中国において、山岳は異界的イメージと密接に結びついていた(注16)。先に挙げた召湾47号漢墓出土の陶尊は「博山炉」と通称される香炉などと同様、神獣の群れ遊ぶ異界としての山岳を象ったものと見なすことができようが、この「博山炉」もまた、陝北地域の画像石の中ではしばしば目にするモチーフである(前掲〔図1〕)。また陝北地域の墓門画像石では、外縁部に雲気文があらわされる場合が多々見― 447 ―

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