られ、一部の作例においてはこの雲気文が鳥獣の表現と渾然一体となった、「鳥獣雲気文」とでも呼ぶべきものへと変化している(前掲〔図1〕参照)。外縁をめぐるこの雲気の流れと、それに巻きこまれたり独立したりしながら躍動する神獣たちの群れこそが、陝北地域の墓門画像石の世界観を特徴づける要素の一つであるが、このような神獣たちの表現は、西王母の台座として採用された山岳表現とも無関係ではないだろう。そのことはこの地域における西王母の台座が常に鳥獣の表現を伴い、時に山岳とも雲気ともつかない表現であらわされることからも傍証される。陝北地域における鳥獣図像については、それが時に狩猟図としての性格を併せ持つことから、塞外の騎馬民族との雑居地帯における文化的様相の発露として捉えられてきた(注17)。そのような側面があるのは当然のこととしても、本報告で見てきたような、陝北地域墓門画像石における山岳表現への執着をも勘案すれば、これはむしろ、天地を媒介し神仙や神獣が住まう、異界としての山岳を強く意識したものであり、鳥獣の表現は、それを視覚的に補うためのものと見なすことができるのではないか。陝北地域出土墓門画像石の表現世界は、構造的には非常に明確な方向性を持つ。〔図1〕にもあるように、門楣にはしばしば日月が、門柱には西王母があらわされることによって東西軸が明示され、また門柱最下部には博山炉の代わりにしばしば玄武が、門扉の上部には朱雀(?)があらわされることにより南北軸が確保されるのであるが、南北軸としての構造を持つ上下の空間構成は、同時に見た通りの上下、天地をあらわすものでもある。このような、異界としての山岳は、しかし漢代美術においてはしばしば、全く別の文脈の中に立ち現われる。それは胡漢交戦図、すなわち、漢人と騎馬民族との戦闘の図であり、その中で山岳は「胡」の本拠地としてあらわされ、異人である塞外民族の来寇する場所としても認識されていた(注18)。陝北地域一帯は元来、秦の長城が所在する塞外民族との接触境界に当たり、漢代における陝北地域社会の構成員には、対外軍事に従事する人物とその関係者が多数含まれていたという(注19)。このような事情を踏まえれば、異域としての塞外の民の居住地と、現実としての漢の領域とを隔てる山岳に対する感慨は、他地域に増して特別なものであったことが想定されよう。このような地理的条件があってこそ、陝北地域においては山岳に坐すという比較的古様な西王母図像が一貫して好まれ続け、それどころか時には西王母自身を欠いてまで、天と地、異域と漢土、異界と現世をつなぐ宇宙山としての山岳があらわされ続けたのではないだろうか。― 448 ―
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