鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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注⑴この地域の画像石についての比較的近年の論考としては信立祥・蒋英炬「陝西、山西漢畫像石綜述」(『中國畫像石全集』5、山東美術出版社・河南美術出版社、2000年)、菅野恵美「陝北画像石の地域的特徴」(『中国漢代墓葬装飾の地域的研究』勉誠出版、2012年。初出『学習院大学人文科学論集』第12号、2003年)、康蘭英「陝北東漢画像石綜述」(『中国漢画研究』第二巻、広西師範大学出版社、2006年)、張欣「規制与変異─陝北漢代画像石綜述」(『中国漢画研究』第二巻)等がある。⑵事実、多室墓または壁面にも画像石が使用される大規模な画像石墓の場合、図像の種類にもバリエーションが見られる。⑶注⑴前掲菅野氏論文参照。⑷李W氏は、画像石における西王母図像の出現率は陝北(及びその派生地域である晋北)地域が最も高く、完好な状態で発見された画像石墓にはほぼ必ず確認されること指摘している(「四 陝北及晋西北西王母図像」133頁『論漢代芸術中的西王母図像』湖南教育出版社、2000年)。⑸注⑷前掲李氏著作、小南一郎『西王母と七夕伝承』(平凡社、1991年)、曾布川寛「漢代画像石における昇仙図の系譜」(『中国美術の図像と様式(研究篇)』所収、中央公論美術出版社、2006年。初出『東方学報(京都)』第65册、1993年)等参照。⑹注⑷前掲李氏著作136〜144頁。⑺画像石に限って見た場合、確実に東王公をあらわしたものと知られる例は2世紀後半に下るが、岡村秀典氏は2世紀初頭に出現する画像鏡において西王母と東王公が一対としてあらわされることを指摘する(「西王母の初期の図像」68頁、『高井悌三郎先生喜寿記念論集 歴史学と考古学』所収、真陽社、1988年)。⑻注⑸前掲曾布川氏論文153頁。⑼注⑺前掲岡村氏論文62頁。⑽李W氏はこれら二つの類型を陝北地域画像石の図像構成のパターンを計る指標の一つとして採用しており、①の類型は永元年間(89〜104)を中心に、②の類型は永和年間(136〜141)を中心に流行するという、時間差での流行の可能性を指摘する(注⑷前掲書152〜155頁)。⑾小南一郎「第五章 崑崙山─中心のシンボリズム」154頁(注⑸前掲書所収)によれば、その典拠となる「東方朔十州記」は六朝時代の空想的地理書であるという。⑿本文中で名を挙げた包頭召湾47号漢墓の陶尊に見える西王母と思しき女性像が、すでにオーバーハングした山岳上に坐している。⒀注⑷前掲李氏著作170頁。⒁古い例としては、先にも触れた召湾47号漢墓出土の陶尊に牛首・鳥首人身像の組み合わせが見えるが、西王母との間には距離があり、近侍するものとしてあらわされたものであるかどうかは必ずしも明確ではない。⒂同様の問題は、陝北地域中においても特殊な主題選択や図像構成を示す神木県大保当画像石墓群についても言える。この中には、日月とともに斑文のある天馬や象をあらわすなど、報告者が以前考察を行った徐州市銅山県苗山漢墓墓門画像石と似通ったモチーフ選択を行うものが確認される。苗山漢墓墓門画像石の図像解釈については拙稿「江蘇省徐州市銅山県苗山漢墓墓門画像石再考」(『美術史研究』第47冊、2009年)参照。⒃森鹿三「支那古代に於ける山嶽信仰」452〜455頁(『歴史と地理』第28巻第6号、1931年)。⒄注⑴前掲の諸論文を参照。― 449 ―

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