鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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─1910年〜1930年代の資料における「芸術」概念─研 究 者:専修大学 専任講師  島 津   京はじめに斎藤佳三(1887−1955)は、大正から昭和にかけて活動した図案家・理論家である。その活動範囲は、美術、音楽、文学、工芸、デザイン、演劇などの芸術分野のみならず、流行や日本人の服装問題その他の評論活動にも及ぶ多岐にわたるものであった。なおかつ斎藤はそれらの活動の多くにおいてパイオニア的立場にあり、斎藤の研究は大正から戦前における日本文化の様々な側面を照らし出すものとなっている。しかし、それゆえに、斎藤佳三についての研究は、個別論にならざるを得ないきらいがあった。しかし斎藤自身は自らを「芸術家としての図案家」と位置付け、「芸術統合」の実行を旨としており、その多様な活動は一貫した理念に基づいた総合的なものとして検討してみる必要がある。この点において、斎藤関係資料の包括的な調査により、斎藤の活動を総合芸術の実践という観点から分析した研究として、長田謙一氏の一連の論考がある(注1)。筆者はこれまでに、こうした先行研究を踏まえ、東京芸術大学に寄贈された斎藤関係資料の調査を行ってきた(注2)。しかし、例えば楽譜の装幀、衣装スケッチ、浴衣図案など、断片的で個別の資料からのみでは、多様な分野にまたがって展開された斎藤佳三の活動の総体とその意義について十全な理解をすることは困難であることが明らかになった。従って、本稿では、斎藤の活動全体を貫く芸術観について考察することを試みた。具体的には、新聞、雑誌等に斎藤が発表した言説と資料をもとに、⑴「リズム模様」、⑵1920年代における斎藤の「装飾」概念と「芸術家としての図案家」イメージ、⑶帝展への「装飾美術」出品、に関する言説を取り上げ、斎藤の「芸術」概念の射程を明らかにする。⑴「リズム模様」を巡る芸術観1913年の渡欧「生命が「芸術」に行けと叫んでいることを知るや直ちに独逸に留学した。而して信念の上に築かれた強固な健全な芸術総合を力行する事をもって目的と定めた」。これは斎藤が第1回目の渡欧から帰国して程なく、1年志願兵として入隊した際の日記の一文である。ここに読み取れるのは、帰国後の斎藤が、「芸術総合」を大きな― 454 ― 斎藤佳三研究

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