鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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目標と定めたことである。ここでは、渡欧から入隊までの斎藤の経験を辿り、芸術の総合に向かう斎藤の道筋を確認する。異なる芸術領域を繋ぐ総合芸術の試みは、19世紀末のワーグナーのオペラがひとつの起爆剤となった。日本でも明治末にワーグナー・ブームが起こり、その舞台が総合芸術の観点から論じられている。斎藤は東京音楽学校在学中の1906(明治39)年に日本初の創作オペラ「羽衣」に主演しており、様々なジャンルの表現が一つの作品となる過程を経験した。舞台を通じて斎藤の関心は舞台美術にも広がり、1907(明治40)年に東京美術学校図案科に入学する。この時までに舞台を通じて岡田三郎助、小山内薫、石井漠ら美術、文芸、舞台関係者と出会っている。美校では斎藤は文芸部に所属した。芸術ジャンルの融合を受入れることの出来る素養は、このように東京音楽学校および東京美術学校時代には培われていたと考えられる。ヴァルデンが主催した前衛芸術の一大展示であった「第1回秋季サロン」展に日参し、読売新聞にレビューを送っているが、そこでカンディンスキーの《コンポジションⅥ》を図版付きで取り上げている。斎藤はリヒャルト・シュトラウスの「アコウド」に対比しつつ作品の解説を試みており、当時絵画から写実描写を排しつつあり、無理解者も多かったカンディンスキーの作品を、楽曲の要素としての音に色彩を類比させることにより把握している(注3)。複数ジャンルがひとつの作品を成立させるという芸術のあり方を、斎藤はドレスデン近郊ヘレラウのエミール・ジャック・ダルクローズの教育施設でも経験している。滞在時の経験を綴った手稿には、リトミックは「一口に云へばリスムから起きて来る感覚を直ぐ人体の表現で充実させようとする」ものと述べ、後の整理では、このように「要素であるリズムとプラステックを修練」することにより、「其踊り手の個性が自然に現はれて来る」ゆえに、それは芸術を構成し、感情の表現となるという。ここではリズムが音楽と身体を結びつけるものとして機能しているという認識を得ている。山田と共に帰国する途中では、音楽と色彩、更には香りまでを統合しようとした1913(大正2)年の1度目の渡独において斎藤は、ジャンルを問わず、新しい動向を吸収することに務めた。東京音楽学校時代以来の親友山田耕筰と共に演奏会や舞台に足繁く通ったほか、当時新興芸術の中心地となっていたベルリンにおける様々な新興芸術動向を間近に経験した。とりわけ強い関心を寄せ共鳴したのは、ヘルヴァルト・ヴァルデンが「シュトゥルム」で喧伝した表現主義であった。芸術は「生むもの」「感じるもの」という、芸術の制作、享受の双方における斎藤の態度がここで決定付けられたと考えられる。― 455 ―

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