鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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スクリャービンの作品を知る機会を得ている。このような経験は、帰国後、複数領域の試みに生かされた。帰国後の1914(大正3)年に限っても、「DER STURM木版画展」の開催、日比谷美術館にて「日本意匠協会」の立ち上げ、帝国劇場、自由劇場などで舞台美術及び衣装デザイン、その間、雑誌に海外の新興芸術運動や舞台美術の動向を紹介するほか、三木露風主宰の「未来社」の同人として詩を発表している。1915(大正4)年は陸軍にて1年志願兵として過ごす中で「芸術総合」の「力行」を目的と定める。翌年1916(大正5)年3月に三木楽器店より『新しい民謡』を刊行、この年は山田耕筰、小山内薫、石井漠らの新劇場にて舞台美術、衣装、広告デザインを手掛けている。またこの頃から、「リズム模様」を発表し始めた。この多彩な活動は、「芸術統合」の試みに向けて歩み出したことを示すといえよう。リズム模様「リズム模様」は、1916(大正5)年以降、美校工芸科や図案科出身者を中心とした、芸術志向の強い若手のグループ展において発表されており、この創作模様は、詩と並び、斎藤帰国後最初期の「作品」とみなすことが出来る。斎藤は、1918(大正7)年5月に白木屋で「リズム模様」の個展を開催する前に、「日本人の服装問題」と題するエッセイを雑誌『新小説』に発表し、リズム模様について次のように述べている。「模様の根本的改造を企てた結果、植物、動物、天象、幾何学的の模様を退け、萬物の初めであるリズムを以つて模様の根元たり得るべきを知った」。この一文の思想的背景には、いわゆる大正生命主義の思潮がある。創作において「生命」が重視されたことは、1914(大正3)年5月に三笠美術店が創刊した雑誌『藝美』で、有島生馬が「自己を描くといふは生命44なる語と共に今日流行の一つである」と述べた言葉にも表れている(注4)。有島は同時に、摸倣でない真の創造こそが自己の生命を表出するとの考えを示している。個人を起点とする創作を工芸で先んじて実践した藤井達吉や富本憲吉、バーナード・リーチらの作品を扱っていた三笠美術店のこの創刊号に、帰国直後の斎藤も舞台美術についての一文を寄せており、三笠美術店を通じた思考の繋がりを窺わせる。また上田敏は、1914(大正3)年に『太陽』上の連載で、「創作の動力は常に生の流から、一種の律を拯出すことだ」と述べている(注5)。斎藤の周囲でも、「未来社」同人の川路柳虹がリズムと口語詩を論じており、リズムと生命と自己の表現を巡る芸術論は斎藤にとり身近なものであった。こうした当時の日本の思潮や、ダルクローズ― 456 ―

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