鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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やカンディンスキーらの芸術に通底するリズムという理念への共感が、リズム模様を生み出す背景にあったといってよいだろう。リズム模様を造形面で見ると、初期と、1927(昭和2)年以降では傾向に違いがある。1918年の上述のエッセイには2点のカットが載せられている〔図1、2〕。1つは「無限なるリズム模様の一例」とされた、模様というよりむしろドローイングに近いものである。もうひとつは「リズムより生れたる繪」と題した踊る女性の姿で、共に生命をイメージさせる抒情的な表現である。1919(大正8)年の装飾美術家協会展に出品されたという模様(注6)は、フリーハンドで描いた弧と波線から成る、有機的かつ、より抽象的な形態である〔図3〕。1927(昭和2)年6月には、「斎藤装飾美術研究所」から数十種のリズム模様が再び発表された。新たなリズム模様は、初期の「リズム模様」に比して幾何学的な形態となっており、1923(大正12)年頃のカンディンスキーの絵画を連想させる〔図4〕。斎藤は1923年にワイマールでバウハウス展を訪問した際にカンディンスキーの作品に接しており、これに何らかのインスピレーションを得た事が考えられる。発表後に「リズム模様とその応用」(注7)と題して書かれたテクストでは、化学における分子式を色彩化したものとしてリズム模様が説明されているが、斎藤がこの文章を執筆した前年、著書『原子』の邦訳もあったジャン・ベランが分子理論の実証実験に対してノーベル賞を受賞しており、こうした事から斎藤も何らかの刺激を受けた可能性はある。しかし、一見科学的な言説を引きながら再びテクストで強調されているのは、万物の創始へのリズムの関与である。斎藤は同文で、「美の形状」は科学では割り出せるはずもなく、結局形の美を判断するのは、理知ではなく霊であり、科学ではなく芸術の分野であると述べる。一見幾何学的なリズム模様は、「ものの発動力、構成力、生命力さえも現す」という。これらすなわち「自然の存在力」を表現した模様に「しまり」や「まとまり」がある時、そこには「霊の快諾許容したリズム表現が行はれて」いるというのである。こうした言説の背景には、バウハウスの新たな方向性を受け、形態の「規格化」を押し進める動きに対する懸念があるように思われる。斎藤は、1918(大正7)年、日本人の服装を改善するために、まず模様の改革から始め、服飾に応用した。斎藤によれば、リズム模様を半襟に応用したのは、それが「単独に最も手つとり早く実用となし得る」からであった。ここには、1913(大正2)年に斎藤がドイツで目にした社会に対する前衛芸術のラディカルさはないが、こうした形での穏便な社会浸透は、当時の日本社会の状況を踏まえた斎藤の現実的な選択であったと考えられる。― 457 ―■■■■

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