鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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1920年代に入ると、三越、髙島屋など百貨店がつくった組織的な流行創出のシステムの中で、アヴァンギャルドの造形的な新しさもまた、様式化され消費の対象となる状況があった。リズム模様の発表歴を辿ると、主に白木屋など百貨店が多く、婦人雑誌や新聞等の一般向けメディアによっても拡散されている。斎藤がなそうとしていたのは、「模様」により、場の統一を図ろうとする、当時としては突出した試みにほかならなかった。それを社会に展開させるために、斎藤は消費社会の枠組をむしろ肯定的に利用したのである。「リズム模様」は、生命主義、表現主義的な発想から生み出された創作としての性質を保ちつつ、一方では服飾に応用され、商業ベースにも乗った。リズム模様によってものの表層の改革に着手した斎藤は、この時、構造のラディカルな革新とは異なる仕方で、しかし、芸術によって社会に働きかける試みに着手しているといえよう。純粋芸術を固守しようとする態度は斎藤にはみられない。ここに斎藤独自の芸術概念が現れているといえるだろう。⑵1920年代における斎藤の「装飾」概念と「芸術家としての図案家」イメージ斎藤の「装飾」概念帰国後の実践の中で、斎藤は「装飾」についての考察を進めていく。1919(大正8)年の時事新報上で、「純粋美術」に劣らないものとしての「装飾美術」を論じるなかで、斎藤は初めて、「装飾」に定義を与えている。斎藤によれば、「装飾とは人間が美的満足を得んとして工風するものゝ其取扱ひの態度に付けた名である。■り純粋美術をも取扱ひの態度によっては装飾と做すのである」。記事中に掲載された図式において、装飾は空間芸術と時間芸術に大別された諸ジャンルの頂点に置かれている。ここでは装飾という観点から芸術が認識されているのである(注8)。以後、斎藤は、ドイツ工作連盟の活動や、現代産業装飾芸術国際博覧会に向けたフランスの装飾芸術推進の動きに示唆を受けながら、「装飾精神」および「装飾美術」(注9)について繰り返し啓蒙的な発言を行う。例えば現代産業装飾芸術国際博覧会の意図について述べた意見書の中では、分離派以降、各国は「装飾」についての「覚醒期」に入り、「それまでの空虚な、人生からひき離して考へても少しも痛痒を感じない装飾は現代人の生活にとっては無縁となった」と述べる。人間生活には、科学や経済と等しく、美的満足がなくてはならず、これらを有機的に結合させ、調和させることが、フランスが「現代装飾」と言い表すものであるとした。斎藤は、「純粋芸術」がひとつで成り立つとすれば、「装飾美術」は様々な要素から■■― 458 ―

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