「芸術家としての図案家」イメージの形成なる「組織」として表現されるとする。また、このような「装飾美術」は、魂と肉体との関係のように、「自己」と「生活」とが切り離せない関係にある「芸術」として高次に置かれる概念となった。こうした芸術を支える「装飾精神」とは、単にものの表面を飾るということ以上の広がりを持ち、様々な要素の調和を生み出す「総合」にかかわるものであることになる。こうした「装飾」を実現するために、斎藤は「図案力」の必要性を説き、図案の領域と使命を定義付けている。1918(大正7)年に斎藤は、経済面、衛生面、発育、育児法を考慮するのは図案家の使命であるとしている。また、服装を考えるためには住宅の改良も共に考えねばならないと述べる(注10)。斎藤が図案家に必要とする「機知的才能」とは、来るべき新たな生活様式をトータルに見据えつつ、そこに見合うものを提案出来る能力である。ここでは旧来の図案家を超える新しい図案家像が提示されている。⑶帝展への「装飾美術」出品1920(大正9)年には、図案は「装飾美術」の完成に最も大切なものとされる(注11)。ここで言う図案とは、単に工芸の上に使用されるものではない。あらゆる芸術において図案は、「観照の自己」が「表現」となるまでの航路であり蛹であるといわれ、図案とは、もはや工芸品との関係のみならず、純粋美術も含め、芸術全ての構造にかかわるものであるという把握が見て取れる。斎藤はまた、「若し此處に如斯該博なる図案といふ専門が与えられ図案家といふ立派な職業を建設しなければ止まぬ」とも述べている。斎藤はゴードン・クレイグやガブリエル・ダヌンツォを挙げつつ、芸術の各領域を統一的な視点により総合し表現出来る、創造的主体としての図案家というイメージを提示する。但し図案家が苦しむのは、「一芸術丈では耐えられぬと思ひながら又其芸術の偉力を知る事」にあると述べ、「純粋芸術」に対する敬意も同様に示している。1927(昭和2)年から1932(昭和7)年まで、斎藤は帝展の美術工芸部門へ6回にわたり「組織(美術)工芸」と称する室内装飾を出品する。斎藤の装飾美術は、「ドイツでいう「人間の生活に統一的美的要素が欠けておれば能率が挙がらない」とする領域の處」(注12)を表現するものであった。帝展への出品は、この生活空間の表現を「芸術」として世に問う機会となった。― 459 ―
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