鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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結このような今の装飾観は、斎藤の述べる「人生に必要な美的満足」に極めて近いところにあるといえる。今は、ロココ時代は装飾を最も純粋に発展させ、実体から切り離して創作として追求した最初の時代であり、表現主義の装飾も、ロココの精神および手法に出発点を求めて展開し得たと述べるが(注17)、この指摘は一面で斎藤の「装飾美術」におけるモティーヴの特徴を言い表している。しかし、斎藤が「自己」の表現に立ち位置を持つのに対し、今は逆に、「他者」の現実に、「装飾」で働きかけるのである。こうした両者の「装飾」概念は、いずれも旧来の「装飾」に対する態度からは逸脱し、装飾を生活の質に関わる重要なものとするものだった。斎藤と今が美校の講師であった時代(1919(大正8)−1933(昭和8))の卒業生のうち、デザイン関係に進んだ何人もが、今と斎藤から影響を受けたと語っている(注18)。その中には、吉田謙吉や吉邨二郎など、卒業後、前衛芸術運動に身を投じた者がおり、装飾と前衛芸術の近接を考察する上で、斎藤と今の「装飾」概念は重要な意味を持つと考えられる(注19)。ドイツで触れた表現主義や大正生命主義の思潮を通じて培われた斎藤の芸術観は、その後の斎藤の活動を基礎付けるものとなった。斎藤は、「自己の表出」を表現の重要な契機と捉えるロマン主義的芸術観を保ちつつ、諸芸術の高次に置かれるものとしての「装飾」概念を打ち出す。この「装飾」は、表現の契機である「自己」と環境とを調和させる原理であると考えられる。ロマン主義的芸術家意識を持った斎藤が、図案家として、第2次世界大戦後に一般的になった「デザイン」領域に通じる先見的な活動を行い得た背景には、こうした思考が存在したと考えられる。また、このような「装飾」のもとで、それ自体では自律し得ない付随的なものとされていた「図案」は、芸術に不可欠の要素として捉え直されるのである。だが、個を重視する「芸術家」としてのスタンスは、斎藤が強い問題意識を持って取り組んでいた、西洋化と近代化に伴う日本人の生活様式の混乱の解消に向け、どのような解決を与えられるかという難しい問題を導くように思われる。この、「個」と「集団」の問題をめぐる斎藤の思考について本稿では充分言及するに至らなかった。今後の課題としたい。― 461 ―

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