研 究 者:京都大学 非常勤講師 矢 頭 英理子はじめに本報告では、大正末期から昭和初期にかけての官展であった、帝国美術院美術展覧会において、同時代の女性を描いた作例が増加することに注目し、昭和5年(1930)の柿内青葉の帝展出品作である《十字街を行く》〔図1〕に焦点を当て考察を行う。柿内青葉(1890−1982)は、女子美術学校日本画科で学んだ後、20歳のころ鏑木清方に入門した。2年後には、清方の画塾の女弟子の指導をまかされるようになったと伝わっている。また、大正2年(1913)以降、婦人雑誌の口絵の仕事にも断続的に携わるようになった。帝展の初入選は大正10年(1921)の第3回帝展で、《舞踏室の一隅》と題された作品である〔図2〕。以後合計7回入選を果たした。それらはいずれも同時代の女性像である。今回考察の対象とする《十字街を行く》では、銀座通りを歩く二人の女性が当時の銀座の風景と共に描かれている。奥には邦楽座、銀座教会が確認でき、路面電車や道行く人々も描かれている。まずは、簡単に、官展と同時代女性像について述べておきたい。官展には、開設当初の明治40年(1907)から、少数ではあるが、平安時代の女性や浮世絵風の江戸時代の女性を描いた作品と共に、時代ごとの同時代女性を描いた作品が出品されてきた。大正末期から昭和初期にかけてその数は増加し、表現も多様性を増していく。背景には、鏑木清方をはじめとした同時代の画家や批評家による同時代の風俗を作品の題材として取りあげることを推奨する言説がある。例えば、仲田勝之助による昭和4年(1929)10月23日の『東京朝日新聞』紙上の批評は、「帝展の日本画家はどうしてこうもロマンチックで、画材を昔の故事や、歴史や、花や鳥や空想的、非現実的なもののみを扱い、時代離れしているのであろう。」とし、「もう少しどうにか清新な変ったモーチフを捕えてもよかりそうに思える」そして、「若き有為の画家にはもっと「生活重視」をすすめたい。」と時代を反映した作品制作を望んでいる。この時期のこのような言説や、帝展の日本画部において強い影響力をもっていた鏑木清方の言説が大正末から昭和初期の同時代女性像の増加の大きな一因として挙げられるであろう。本報告では、第一章では、《十字街を行く》の銀座という都市の表象の観点から、― 464 ― 昭和初期帝展に出品された同時代女性像の成立背景の考察─鏑木清方門下の作品を中心に─
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