鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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第二章では、女性の表現について考察する。それらを踏まえ、第三章では大正末期から昭和初期における同時代女性像の受容の問題について帝展の大衆化についても視野に入れ、検討していく。第一章 都市の表象《十字街を行く》は、先に述べたように、銀座通りを歩く女性が主題となっている。二人の女性の後ろに描かれた都市の情景については、作品発表当時の帝展評において、「柿内青葉氏の『十字街を行く』を取る。この画はごちゃごちゃした背景がなくても可。」(飯塚米雨「帝展日本画総評」『美之国』昭和5年11月、6巻11号)と評され、必ずしも好意的に受け止められたわけではないようだが、路面電車や近代建築、そして細かく描きこまれた人々の様子は作品に生き生きとした魅力を与えているのではないだろうか。そこで、この章では、都市の表象という観点から、考察を加えていきたい。まずは、作品が制作された当時の銀座の状況について先行研究(注1)を参照しながら簡単に見ていく。江戸時代の銀座は職人の町の色合いが濃かった。明治に入り、明治新政府の「国策商店街」として変化していく。明治5年の銀座火事の後、煉瓦街が造成され、鉄道馬車の開通、ガス灯・アーク灯の点火、現在の百貨店にあたる勧工場の設立などが相次いだ。その後、明治の中期頃からは新聞社が集中しはじめるようになった。明治後期には、政府の高官、資本家、知識人らの社交場として利用されるようになり、ビヤホール、市街電車、カフェなどの新しい施設が次々と作られた。明治末には、市民の盛り場へと転換していく。初期には、官吏・実業家・会社員が主な顧客であったが、第一次世界大戦の好況を背景に銀座は次第に大衆化していくが、大正12年(1923)の関東大震災により、煉瓦街は消失する。《十字街を行く》が描かれた昭和5年には、震災の復興完成を祝う「帝都復興祭」が銀座を中心に盛大に行われたが、この頃から、日本は不景気と軍国化に突入し、退廃的なエロ・グロ・ナンセンスの風潮が浸透し、その一方で、軍国調の拡大が銀座にも影響するようになる。《十字街を行く》が制作された時期の帝展出品の日本画は花鳥画や農村、山村風景、神社、寺院、郊外風景を描いた作例が圧倒的多数を占め、都市の風景を扱ったものは少ないが昭和5年前後にはそれ以前に比べ、都市風景を描いた作品が増加する傾向が見られる。― 465 ―

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