鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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店が出店した。このような銀座四丁目の状況も創作版画の題材となっている。藤森静雄の「大東京十二景」五月・夜の銀座〔図5〕は画面の両端にそれぞれ服部時計店、銀座三越を配し、画面の下部には多くの人々がひしめき合うように表現され、街のにぎわいが伝わる。ここまで帝展出品の日本画そして木版画の都市を表現した作例について、具体例を確認した。三浦篤氏は、近代の洋画に関して、「明治の洋画が近代的な都市表象を獲得するのは、明治も末の四十年代を待たなければならない。」と指摘し、山脇信徳の作品を典型的な例であるとしている(注5)。確認したように、帝展出品の日本画では、都市風景を主題とするものは、大正末頃まで極めて少なかった。しかし、昭和5年ころには日本画の作例においても同時代の都市を描いたものが増加する傾向がみられ、「新東京百景」のような木版画のジャンルでも震災後の東京は様々に表現されていた。このような状況は《十字街を行く》の制作の一因として指摘できると思われる。この時期の絵画、版画、写真はそれぞれ展覧会に出品され、版画集として出版され、グラフ雑誌の表紙を飾り、「人々の脳裏にさまざまな「現代」(モダニティ)のイメージを膨らませ、増殖させる基になってであろうことは想像に難くない。」と指摘されている(注6)。次章では、この「現代性」の表現という点について女性表現を中心に考察を進めていく。第二章 女性の表現ここで、《十字街を行く》の女性像について詳しく確認しておきたい。画面向かって左側の女性は和装であるが、作品が描かれた2年後の昭和7年(1932)出版の美人画集の解説にも、「和装の人はおとなしい装いではあれど、これで遠隔の地方へ押し出したら、そのモダン振りに瞠目させるに違いない。」とあるように、和装でありながら、当時の流行の先端を行くスタイルで描かれる。向かって右の女性は中国風の衣服を身につけているが、先行研究によれば中国服への関心の高まり、流行は1920年代の半ばとされ、1927、28年ころから流行を伝える新聞記事が現れ、1932、33年に集中するとされている。また、池田忍氏(注7)は「文学・絵画を検討するならば」中国服の着用の流行に先立ち、「中国服への関心は大正時代後半には始まっていると思われる。」と指摘する。帝展における状況を見てみると、日本画でいくつか中国風の人物を描いた作例が見られ、洋画では、大正14年― 467 ―

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