鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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(1925)には小林萬吾《銀屏の前》のような日本人の女性を中国服を着た姿で描いた作例があらわれている。《十字街を行く》は、柿内青葉の作品の変遷をたどると、転換点を示しているように思われる。《十字街を行く》の特色をより明らかにするために、柿内青葉の画業の変遷を詳しく見ていきたい。柿内青葉の帝展出品作は7点あり、初入選は大正10年(1921)の《舞踏室の一隅》〔図2〕である。そして4年後の大正14年(1925)の《十六の春》〔図6〕、大正15年の《月見草咲く庭》〔図7〕、昭和2年の《春のをとめ》〔図8〕、昭和3年の《嫁ぐ人》〔図9〕、そして昭和5年の《十字街を行く》、翌年の《幕あひ》〔図10〕と続く。昭和3年の《嫁ぐ人》以前の作品は立像、座像の差異はあるものの、静的な動作を示すのに対し、《十字街を行く》は作品名のとおり、通りを闊歩する女性像であり極めて動的な画面である点があげられる。また、《十六の春》や《月見草咲く庭》女性と草花がモチーフとなっているが、このように女性と草花を組み合わせて描く作例は官展開設当時から散見され、女性を描く際の常套的な表現方法であったといえる。《嫁ぐ人》は、二人の女性を描く点で、《十字街を行く》、《幕あひ》と共通点を持つが、まもなく嫁ぐ女性や、花嫁といった題材は、近代の日本画において繰り返し描かれてきたものであり、目新しいとは言い難い。また、《嫁ぐ人》以前の作品ではいずれも和装の女性を描き、《十字街を行く》や《幕あひ》に見られるような新しい女性風俗への関心もこれらの作品からはあまり感じられない。次に、女性の顔貌表現に注目したい。《十字街を行く》には、それ以前の作品には見られない特徴がある。それは、画面向かって右側の中国風の服装をした女性に控えめにではあるが、笑みが見られる点である。柿内青葉は大正初期からそれ以後断続的に主に婦人雑誌の口絵、あるいは表紙絵を手掛けている。大正3年(1914)5月の『婦人世界』に掲載された「薔薇咲く庭」〔図12〕そして『女学世界』大正6年(1917)10月号の「こすもす」〔図13〕はいずれも青葉の画業の初期に描かれたものである。いずれも女性の上半身を大きく描き、薔薇、コスモスの花が女性の背後に添えられている。昭和期にも口絵の作例は存在する。例えば、『婦人画報』昭和5年3月号の「桃咲く頃」などである〔図14〕。大正期と昭和期の作例を比較すると、女性の顔貌の表現、特に眼と鼻の描き方に差異が認められる。眼については、大正期はぼかしが目立ち、黒目の部分の表現も一様なのに対し、昭和期の「桃咲く頃」では、ぼかしは排され、黒目の表現もより実際に近いものとなっている。鼻の表現は、昭和期の「桃咲く頃」― 468 ―

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