では大正期に比べ、よりはっきりとした線で描かれている。また着物の表現でも昭和期の「桃咲く庭」ではよりはっきりとした線が確認できる。このような「桃咲く頃」の女性の顔貌表現や着物の線は、同年に描かれた《十字街を行く》と共通する。ここまで確認してきたことをまとめると、柿内青葉の帝展出品作の変遷として、《十字街を行く》以前の作品では、女性の動作は静的であり、明治以降の日本画において繰り返し表わされた女性表現を踏襲しているのに対して、《十字街を行く》は動的な画面構成を持ち、当時の女性の新風俗への関心が読み取れる。このことは、洋装女性と和装女性を組み合わせて描いた翌年の《幕あひ》にも通じる。女性の顔貌表現では、眼に写実性が増すこと、そして鼻の表現が陰影を用いた表現から線を使った表現に移行することがあげられる。また、線については着物の表現でも違いがみられ、昭和期の作品ではそれ以前よりもよりはっきりとした線が用いられるようになる。次に動的な女性の表現や女性の最先端を行く服装が表現された時代背景を考えてみたい。この時期の絵画作品については、《十字街を行く》を考察する上でも、看過できない指摘がなされている。児島薫氏は帝国主義を推進する日本において、女性像が西欧との関係だけでなく、アジアとの関係のなかで意味を帯びてくることになったと指摘する。そして大正15年(1926)の帝展に出品された松岡映丘の《千草の丘》に関して、松岡が東京美術学校教授として帝展に出品した作品であること、背景に描かれるのは完成したばかりの那須の御用邸を望む風景であること、当時の松岡が皇室のご慶事関連の依頼品の制作を行っていたことを根拠として、「モダンな着物姿の女性は日本の繁栄を示すものであり、背後の風景は国土を讃えるものであったのではないかと思われる。」と指摘する。また、武藤嘉門の昭和12年(1937)の《ショーウインドウ》を取り上げ、「客である女性たちの姿を、マネキンのように見られる存在として表わし、着飾った美人たちの姿が都市を飾る存在として見られていた、と種明かしをしているようである。」としている。《十字街を行く》を再び振り返ってみるならば、華美な姿で描かれた女性像、そして銀座四丁目という百貨店の集中した場所を舞台とすることなどは、当時の帝国主義が押し進められる国内の状況やそれを反映したとされる絵画作品からの影響も感じられる。さらに先述のように柿内青葉の帝展出品作の推移を考えると、《十字街を行く》はそれまでの作例とは異なる特徴をもつ。そうした変化が時代状況や画檀の状況を反映しているとすることは一面においては正しいように思われる。しかしながら、《十字街を行く》やそれに続く《幕あひ》、そして同時代女性を描い― 469 ―
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