部には金泥がうっすら刷かれ、月下の源氏を照らしだすように、幻想的な雰囲気を漂わせる。源氏はこれから対面する御息所がいるであろう方向を向いてはいるが、何か遠くを眺めやる様子である。その姿はそれまでの過去の出来事を思い起こすような、しっとりとした風情をたたえている。葵上に生霊がとりついた一件より、御息所とは疎遠になっていた光源氏であるが、物語本文では野々宮へ来たことで御息所に対する執着心が芽生え、疎遠にしてしまったことに対する後悔の念が新たに湧いてきたことが記述される。本図は、御息所との間に流れた時間を振り返る光源氏の感情の高ぶりを描くことに主眼が置かれているようだ。伝統的な源氏絵が用いてきた濃彩や金雲による装飾を排し、中心人物だけをクローズアップし、情景描写は必要最小限に抑えることで、人物の心情に迫った表現が可能になったと言えよう。前述したとおり「官女観菊図」は異例の場面選択であり、御息所だけを中心に取り上げる作品は前例を見ない(注6)。しかも「野々宮図」では再会直前の光源氏の姿を、「官女観菊図」では再会後の御息所の姿を描くということは、その間に起こった「二人の再会」という、源氏絵でも好んで絵画化されてきた重要な場面を敢えて選ばなかったということである。このクライマックスを省略することで、鑑賞者は自ずとこの二図の間に流れた時間と、その間に起こった出来事を想起するだろう。それにより、「野々宮図」では再会前の緊張感が、一方の「官女観菊図」では再会後の余韻が、それぞれの画面から醸し出されるのである。次にこの二図が主題のみならず、構図や技法においても対となるように描かれたことを確認する。まず注目されるのは、二図がモノクロームで描かれた点である。「官女観菊図」は白描やまと絵の描法で、地に咲く菊は水墨画の没骨法で描かれ、和漢の技法が用いられる。「野々宮図」もまた人物・背景ともに墨を主体に描かれているが、「官女観菊図」と比べると、より水墨画的な要素が強い。両図とも墨と素地の白とが生み出すコントラストが気品ある静謐な物語空間を作り出し、懐古的な情景を描いている。そして、この二図を並べてみればさらに興味深い構図が浮かび上がる〔図13〕。「野々宮図」を右に、「官女観菊図」を左に並べると、源氏と御息所がちょうど向き合う姿勢になる。人物だけでなく、源氏を取り囲む鳥居と三人の女性を取り囲む牛車もちょうど向き合うように配置されている。源氏は鳥居の下に佇み、体を画面左に向けている。顔はやや上を向き、遠くを見つめるような姿である。一方の御息所は顔を下方に向けて、何を眺めるでもなくぼんやりと遠くへ視線を落としている。それぞれ単幅で鑑賞すると二人の視線の行方は曖昧で思わせぶりである。しかし二図を並べてみれば、二人の視線はちょうど交差する。つまり両図には左右に並べた時に初めて完結― 38 ―
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