研 究 者:大阪工業大学 非常勤講師 桑 野 梓はじめに江戸時代における中国美術の伝来と摂取に大きく関わったのは、黄檗派(黄檗宗)である。黄檗派の伝来は、近世禅宗界のみならず、建築・絵画・書などの文化・美術面においても大きな影響を与え、仏像彫刻においても黄檗派の影響を受けた、新たな作風の仏像彫刻が誕生した。黄檗の影響を強く受けた仏像彫刻の規範となった彫刻作例は、主に京都府・宇治市にある黄檗山萬福寺に安置される彫刻群である。萬福寺は、中国・明の高僧、隠元隆琦(1592〜1673)によって開創された寺院で(注1)、隠元は、承応3年(1654)に長崎に渡来し、寛文元年(1661)に寺地を4代将軍徳川家綱より拝領、黄檗山萬福寺として開創した。萬福寺の伽藍、法要は共に中国式に則っており、現在でも創建当初の伽藍が多く残されている。萬福寺諸堂に安置される彫刻群の多くは、中国人仏師・范道生による作例で、中国・明末清初の作風を持つとされる。その像容は、大ぶりで深く刻まれた衣の皺や、やわらかい丸みのある顔の肉取りなど、捻塑的表現に特徴がある。范道生は、福建省泉州府安平県の出身で、万治3年(1660)に長崎・福済寺主蘊謙の招きで来日し、長崎・興福寺、福済寺などの仏像を制作した(注2)。その後、寛文3年(1663)に隠元の招きで登檗し、十八羅漢像の他に隠元寿像、弥勒大士(布袋)を制作したと伝えられており、寛文2年(1662)の制作とされる観音菩薩(白衣観音)坐像・韋駄天立像などは、長崎で制作後、萬福寺に運ばれたと考えられている(注3)。以下に、范道生作と考えられる作例を挙げると、寛文2年(1662)… 観音菩薩(白衣観音)坐像・韋駄天立像・達磨大師坐像・緊那寛文3年(1663)…隠元隆琦倚像・弥勒大士(布袋)像寛文4年(1664)…十八羅漢像年代不明…華光菩薩倚像・善財童子立像・龍女立像と、萬福寺滞在期間はわずかながら、20軀以上もの造像を行ったことになる。1、范道生作十八羅漢像についてここではまず、大雄宝殿に安置される、范道生が寛文4年(1664)に制作したとい羅王菩薩立像― 476 ― 近世彫刻史における羅漢彫像の研究
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