鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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われる、十八羅漢像を取りあげたい。大雄宝殿内部は、4半敷の土間になっており、中央正面石造の須弥壇上に、釈迦如来像、脇侍に迦葉、阿難像が安置される。両脇の裳階部分には十八羅漢像が腰掛けられるよう、2段の須弥壇が置かれ、左右にそれぞれ9軀ずつ安置される。萬福寺像の制作については、『黄檗和尚太和集』(注4)に、寛文申辰年五月十八日孝子本多忠平忠利忠以忠仍忠當為薦故妣法光院妙雲性敬夫人七周忌敬塑十八大阿羅漢請開光云(後略)と記述があり、寛文4年(1664)に奥州白河城主本多忠平以下4人の弟達が、母の7周忌に際して、十八羅漢像を寄進したことがわかる。十八羅漢像の造像経緯については、『即非禅師全録』(注5)に、十八尊者(中略)命范生刻其像 坐身高半丈許 梵相奇古儼然如生(中略)経始于癸卯冬至 甲辰夏功訖其半 端午日預請八尊 入円通殿(以下略)とあり、その像容が「梵相奇古であり、儼然として生けるが如し」と述べたあと、端午の日、つまり5月5日にまず完成した8軀を円通殿に安置していることがわかる。また、『雲涛続集』(注6)には、 五月五日 請羅漢入堂志喜とあり、5月5日に羅漢をお堂に入れたという記述がある。さらに『雲涛三集』巻7(注7)には、 八月廿九日 十八尊者功成識喜とあり、8月29日には、十八羅漢全ての完成を喜ぶ記述が見られる。つまり、萬福寺十八羅漢像は寛文3年の立冬の日に制作に着手し、翌年の5月5日にまず8軀が完成し、8月29日に残る10軀が完成したという2段階を経て作られたことが判明する。筆者は以前、萬福寺十八羅漢像全体の作風について特徴を抽出し、同じく中国人仏師の作例である、長崎・崇福寺十八羅漢像との図様、形制の比較を行い、その共通点、相違点についてまとめた(注8)。その際、両十八羅漢像には、10軀の図様の共通する像を見出した。この10軀に関しては、中国においてある程度定型化した、あるいは流布していた図様であると理解した。萬福寺十八羅漢像全体の作風をみてみると、崇福寺十八羅漢像と共通する図様である10軀は、中国風の羅漢像として特徴的な像が多く、例えば法衣の上から頭を覆う外套を着し、衣には細かい襞を寄せ、両手は正面で袖の中に入れ組んで、結跏趺坐する第4尊者・蘇頻陀尊者像〔図1〕や、衣を両腕半分まで脱ぎ、胸の正面を両手で開け、中には如来頭部をあらわし結跏趺坐する第11尊者・囉怙羅尊者像〔図2〕などを含― 477 ―

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