鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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む。一方で残る8軀には、正面を向いて結跏趺坐する第9尊者・戎博迦尊者像〔図3〕や、右手を下に両掌を伏せて結跏趺坐した足裏に重ねる第16尊者・注荼半託迦尊者像〔図4〕など、動きの少ない像が多い。崇福寺十八羅漢像は、全体的に、坐勢や体の向きなど様々で、1軀1軀に個性をもたせている。これと比べれば、萬福寺十八羅漢像は、動きが特徴的な像と静かに坐す像とがバランスよく配され、まとまった印象を与える。つまり、崇福寺十八羅漢像と共通しない8軀によって、萬福寺十八羅漢像全体の印象が決定付けられていることが指摘できる。ここで、10軀という数字に注目したい。これは先に触れた寛文4年8月29日に後から完成した10軀と数が一致する。これは単なる偶然に過ぎないのであろうか。ここでひとつの疑問が浮かび上がってくる。それは制作時期にズレが生じているのは、いかなる理由によるものかということである。范道生は寛文4年(1664)の9月初旬には萬福寺を離れ、父賛公70歳の誕生日を祝すため、長崎から広南船へ乗った(注9)。范道生の日本滞在は5年ほどで、京都では1年程という短い期間であった。この短期間に彼ひとりで先に述べた全ての像を制作したとは考えられない。後の記録ではあるが、『知客寮須知』の記述より(注10)、前々ヨリ本山之佛師ハ友山香甫康祐忠圓 四人ニ相定申然処ニ 友山ハ致死去香甫者 江戸ニ致居住康祐ハ従公儀京上御追放 右四人之中忠圓壱人近年ハ致出頭候(以下略)とあることからも、萬福寺諸像の制作については、彼の指導のもと、京都仏師達が制作に携わったであろうことはすでに指摘がされているところである。ところで近年、東京・羅漢寺に安置される松雲元慶(1648〜1710)作の五百羅漢像の造像に関し、注目すべき報告が発表された(注11)。松雲元慶は元々仏師であったが鉄眼に師事し、僧となった後、鉄眼や、同門の鉄牛と関係のある寺院での造像を行った。羅漢寺の他、東京・豪徳寺釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像、弥勒菩薩坐像、達磨大師坐像、大権修利菩薩倚像や(注12)大阪・光明院文殊菩薩立像、弥勒菩薩立像などの作例が知られている。現在、東京・羅漢寺には300軀近い数の羅漢像が安置され、これらはうねりのある衣文や、動きのある表情など、黄檗彫刻としての特徴を持ちながらも、顔の各部が正面に集まった、彫りの深い顔立ちなどは、松雲元慶作例の特徴として捉えることができる。先の研究報告では、松雲元慶1人で500軀以上の羅漢像を造像したのではなく、松雲元慶独特の表現が認められる頭部は、松雲元慶が中心となって制作し、構造が共通し、統一のとれた木寄せで作られた体部は、その他の― 478 ―

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